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第153話 Butterfly Effect
今日はやけにみんなの退勤が早い。気が付けばこの海外事業部には俺と隣席しか残っていない。無意識に卓上カレンダーに目をやる。十二月二三日。
「あれ? 今日って祝日じゃなかったか?」
そう呟くと隣席の同僚がクスッと笑った。
「藤原くん、いつの話してるの」
彼女にそう言われた瞬間、前の天皇の誕生日だったことを思い出した。天皇が変わって祝日も移動したのだ。
「明日はイブか。一年経つのが早いなあ」
照れ隠しのように話をずらす。
「やだな、藤原くんもおじさんぽくなっちゃって」
「おじさんですよ」
「何言ってんのよ、三十前でしょ」
彼女は役職こそついていないが、キャリアも年齢も俺よりかなり上だ。三人のお子さんの産休育休で通算十年ほど休んだ結果、出世コースから外れた。それでもそれらの長期休暇に入るたびに早々の復職を熱望される程度には仕事ができ、人望もある。
「とっくに三十代突入してます。この間の海外出張中に三十二になって」
「えー、そうだっけ。やだなあ」
「やだと言われても」
「だって私もその分、年取ってるわけでしょ」
「そりゃそうですよ」
「……そりゃそうよね」彼女は壁の時計に目をやる。「うちもサンタを信じてるのは一番下の子だけになっちゃったもん、年も取るよね」
「こどものそれは成長ですから」
「成長と老化の分岐点はどこなんだろうね。あー、やだやだ、私も帰ろっと」
立ち上がり帰り支度をした彼女がドアに向かった瞬間に、誰かが入ってきた。
「あ、よかった。まだ残ってらしたんですね。鍵閉まってたらどうしようかと思ってました」
入ってきたのは直江だ。一年半ほど前にヘッドハンティングで入社してきて営業部に配属、それからこの海外事業部へ、そしてまた営業部に戻るという、短期間のうちに異例の異動をしている男だ。その過程で課長の一人が突然退社したのは無関係ではないだろうが、深入りはしない主義だ。さっき話題にした「この間の海外出張」は海外事業部に籍のあった頃の直江と同行した。出張先の南国の開放的な雰囲気に流されたのか、たまたま現地で迎えた俺の誕生日を祝ってもらうことになり――気付いたら身体を重ねていた。
「もう帰るところよ」
「藤原さんは?」
「俺ももうすぐ。で、直江は何の用?」
「資料を取りに。――あったあった、これです」
キャビネットからファイルを取り出す直江に、俺は尋ねた。
「まだ残ってやるのか」
「少しだけ」
「若いから無理も効くわよね」
「あ、そうだ。直江は正真正銘の二十代ですよ。な?」
急に話を振られた直江は戸惑い気味だ。
「え、ええ、まあ、そうですけど。でも、二九なんで、ギリギリですよ」
「やぁね」
「え?」
「じゃあ、お先に」
ポカンとする直江を尻目に帰っていく彼女を見送ると、笑いがこみあげてきた。
「……今の、何ですか」
「成長と老化の分岐点はどこだろうってね」
「は?」
直江は不快そうに顔をしかめた。いつも淡々としている直江が、俺の前でだけは少しだけ表情豊かな気がする。
「で、何時に終わるんだ?」
「あと一時間ぐらいですかね」
「じゃあ、俺もそれに合わせるから一緒に出よう」
直江の顔が一瞬にして変わる。したたかな、煽る視線。
「イブイブの金曜日ですよ? 今からホテルなんか取れませんよ」
「別にホテルに誘ってないだろ」
「誘ってないんですか」
「誘ってはいる。ホテルじゃなくてもいいだろ。俺ん家 とか。明日も明後日も休みなんだし」
「……へえ」直江が艶然と笑う。「一緒に過ごしてくれるんですか、クリスマス」
「おまえの予定がないならって話だけど」
「ないですよ。世の浮かれた恋人たちを恨みながら、部屋に籠って一人でホラー映画でも見て過ごすつもりでした」
「暗いな」明らかな嘘に俺は笑う。「それに、それじゃまるで恋人がいないみたいじゃないか」
俺は直江を試していた。出張から帰ってきたあとも、何度か身体は重ねた。でも、それだけだった。仕事帰りにホテルにしけこみ、セックスして終わり。好きだともつきあおうとも言っていないし、言われていない。――俺のことを恋人だと思っているのか、いないのか。
心の中で思ったことが口に出てしまっていたのか、直江が言う。
「僕はあなたのお望み通りのものになりますよ?」
どういう意味だ。問い詰めるより先に、直江は部屋を出て行ってしまった。
夕食のために店に立ち寄ることもなく俺の部屋に直江を引き入れると、即座に抱いた。残業の疲れも空腹も感じなかった。いや、飢えてはいた。その飢えを直江で満たしたくてたまらなかった。貪るようなキスをする。直江もそれに応じる。ろくに前戯もせずに足を開かせ、挿入した。直江が俺にしがみつく。と同時に肩に激痛が走った。直江が俺の肩に噛みついたのだ。それでも快感のほうが大きくて、痛みはむしろ相乗効果となり、俺を興奮させた。
「あ、ああっ、んっ……ふじわ、さん……あっ、い、いい、ああ、そこ、もっと強くして……」
何回目の挿入だったろう、そのときは所謂「寝バック」の体勢だった。直江の中を擦ってやると、譫言みたいにねだってきた。そこから起き上がらせて背面座位になった。
「ほら、自分で好きなとこ当ててみな? あと、こっちと両方されるのも好きだよな?」
直江の乳首を指先でつまみ、転がし、きゅっと捻る。
「あっ、やだっ、それすぐイッ……」
直江の乳首。特に左胸。そこには蝶のタトゥーが入っている。およそ刺青など似合わぬ真面目そうな顔をしておきながら、スーツの下にはこんなものを隠しているのだ。出張先のホテルでそれを知ったときには驚いたが、俺にとってはこのタトゥーが直江の象徴だ。興奮して汗ばみ、うっすらと赤みを帯びた肌になればより一層鮮やかで、淫靡な蝶に見える。
「あーっ、あっ、やっ、も、イク、だめ」
自分で腰を振る直江に合わせ、俺も下から突きあげてやる。同時に固くツンとなった乳首も弾くように、ときにつねるようにする。そのたびにアナルがきゅんと切なそうに締めつけてくる。
「イッちゃう、……じわらさん、イク、も、無理、イクッ」
最後は一瞬背を反らして、強すぎる快感を逃そうとする。でも、そうはさせない。口を押さえ、手首も押さえ、身動きも喘ぎ声も封じる。やがてビクビクと身体を震わせ、触ってもいないペニスから白いものを吐き出した。俺も同時に、直江の中に放出する。
二人して果てると、ベッドに倒れ込むようにして横たわった。果てたときは背中を見せていた直江が、向き直り、正面からハグして来た。珍しく可愛い仕草をするものだと、俺からも手を伸ばして、直江の腰に回した。
「ごめんなさい、歯型」
直江が俺の肩の噛み痕に気づいたようだ。
「無意識だったのか」
「はい。……なんとなく、食べちゃいたくて」
「ガチで食うなって」
「食ってませんよ。ちょっと噛んじゃっただけ」そう言うと耳元に口を寄せ、囁いてきた。「でも、藤原さんも僕のこと食べたいって思ったでしょ?」
――僕はあなたのお望み通りのものになりますよ?
そうか。それが答えか。俺が恋人だと言えば恋人に。セフレと言えばセフレに。あるいは単なる仕事の関係でも、更には食い物にだってなる。――俺が望みさえすれば。
返事を濁していると、直江は俺の手を取り、左胸のタトゥーに当てた。彼の心臓が脈打つのを感じる。
「ドキドキしてるの、分かるでしょ」
直江は両手で、左胸に置かれた俺の手を、更に強く胸に押し付ける。
「好きですよ、誉 さん」
初めて下の名で呼ばれて、もうダメだ、と思う。俺は堕ちていくしかない。この男の深淵に。誰が「試した」だ。試されたのは俺のほうだ。
「ああ、俺も」
直江の下の名前はなんだったかな。確かちょっと珍しい名前だった気がする。そんな薄情なことを考えながら、俺は腰を屈めて直江の胸元に顔を寄せた。それから眼前の艶やかな蝶のタトゥーに取り込まれた乳首を咥えた。直江の手が俺の頭を優しく撫でる。いっそこの乳首を食いちぎってやろうかと残酷な思いがよぎるが、無論そんな野蛮なことはしない。ちらりと見上げた直江は、俺の思惑とは裏腹に聖母のように慈愛に満ちた表情だ。だが、それがいっときの幻影に過ぎないことはもう知っている。直江は聖母どころか娼婦だ。蝶に魅入られた男たちを誑かし、与えるだけ与えて去っていく、そういう奴だ。それともそれも俺の願望か。俺が望めば、娼婦にも聖母にもなれるのか。
俺は直江にどうあってほしいのだろう。恋人か。一生のパートナーか。それとも欲を満たすだけの。
考えている俺の前で、直江は喉をさするようにして、軽くせき込んだ。
「大丈夫か」
「ええ。少し乾燥しているみたい」
「喘ぎ過ぎだろ」
「それもある」
今度は無邪気に笑う直江にまた揺さぶられる。
「加湿器、つけるよ。小さいやつだけどないよりはマシだと思うし」
「すみません」
俺はベッドから出て、加湿器のスイッチを入れる。間もなく水蒸気が上がる。高級品じゃないから、センサーで湿度調整したりはしない。タンクに水がある限り延々と水蒸気を吐き出し、うっかりすると近くの紙類がヨレヨレになってしまうことを思い出して、少し位置を変えた。元の場所の近くにはカレンダーが貼ってあるのだ。これもどこかの国に商談に行った際に土産代わりにもらったノベルティで、日本の祝日に準拠していないため実用性はあまりない。ただ、各月に有名な絵画が大きくプリントされていて、殺風景な部屋のインテリア替わりと思って飾っていた。
絵の右下に作品のタイトルと画家の名も小さく記されていた。画家は「Jacques-Louis David」。ジャック=ルイ・ダヴィット。その名を見て、俺は直江の下の名前を思い出す。
ベッドに戻り、一連の作業を見ていたらしき彼に覆いかぶさるようにした。
「瑠偉 」
耳元で囁く。
「覚えててくれたんですか」
「当たり前だろう」
たった今思い出したことは伏せたが、どうせ直江には――この蝶には――お見通しなのだ。
「この加湿器だけじゃ喉は潤わないよな。なんか飲むか。あと、何か軽いものを食って……」
「シャンパンはないんですか。クリスマスですよ」
「カヴァで我慢してくれ」
「キンキンに冷えたやつなら」
「それは保証する」
「だったら文句なしです」
うちに来ることがあれば直江と飲もうと思って用意したものではあるが、機会がなくて冷蔵庫に入れっぱなしなのだ。冷えていることだけは確かだ。
俺はあの日と同じように酒をグラスに注ぐと、ベッドの直江に運んでやった。
「メリークリスマ……あ、まだ二三日か」
「もう二四日になったからいいんじゃないですか。メリークリスマス」
時計は零時を回っていた。改めて直江とグラス同士を軽くぶつけて乾杯する。
「明日も休みだし、夜はまだ長い……ですよね?」
直江もあの日と同じようなセリフを言う。
「そうだな」
二人分のグラスをサイドテーブルに置く。直江が俺を受け入れるために仰向けになって両手を広げると、胸の小さな蝶が羽ばたくように見えた。このわずかな羽ばたきから、俺の世界は確実に変わった。今も変わり続けている。俺たちはいったいどこまで行くのだろう。いや、行った先に直江はいるのだろうか。
「誉さん」
俺を絡めとる手が、蝶と言うより蜘蛛の糸のようだ。
「瑠偉」
それでも愛さずにはいられなかった。
彼の撒き散らす鱗粉に毒があろうが、その実体が蜘蛛だろうが、ただ俺は、この美しい蝶に囚われるしかないのだった。
(終)
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※「Butterfly in the Champagne」番外編
https://fujossy.jp/books/13681
※本編は同人誌「gift」にも収録
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