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第157話 七月七日、通り雨。 *「その恋の向こう側」番外編

「すごい雨だったな。傘さしても意味ねーって感じ」  和樹は棚からタオルを二枚取る。一枚を涼矢に渡し、もう一枚で自分の髪を拭おうとして、首から上はさほど濡れていないことに気付いた。ひどく濡れているのは主に膝から下、それと傘からはみでていたであろう右腕だ。急な雨を涼矢が持っていた折り畳み傘一本でしのぎ、走って帰宅したところだ。傘をさしてくれていたのは涼矢で、おそらくはなるべく和樹が濡れないようにと傘を傾けていた。  その証拠に涼矢はほぼ全身濡れており、右も左も関係なく水分を拭っている。和樹はそんな涼矢に向かって傘の意味はないと言い放ったことを後悔した。 「びっちょりやんけ」和樹はふざけた口調の中に詫びの気持ちを半分込めて、涼矢の体を拭きだした。「でも今日雨降るなんて予報出てなかったよな? よく折り畳み傘なんか持ってたな、準備のいいことで」 「バッグに入れっぱなしだっただけ」  あの日。  台風の中、車を飛ばして東京に向かった日。ようやく到着したところでコインパーキングはアパートから少し距離があり、ようやく和樹の部屋にたどりついた頃にはずぶ濡れになっていた。あのときは、車にもバッグにも「万一のための傘」なんて準備していなかった。財布の中の現金と、和樹の部屋の鍵。それだけが頼りだった。仮に車内に置きっぱなしの傘があったとしても気付かなかっただろうし、気付いてもそれをさす間も惜しんで先を急いだかもしれない。  言われてみれば、バッグに折りたたみ傘をしのばせるようになったのはあの日以降のことだ。  まだ少し辛い回想をしていると、和樹が苦笑いしながら言った。 「最後の最後でしまらなかったなあ」 「え?」 「俺が涼矢くんにごちそうするとか、めったにないのに」 「いやいや、美味しかったよ」 「だろ? でもさ、だから余計になんか悔しいわ。最後にずぶ濡れって」  涼矢の誕生日祝いは外食にしよう。和樹がそんなことを言い出すのは、確かに、珍しいことだった。元をたどれば共通の女友達のエミリの言葉が発端で、エミリがまたその友達と行ったレストランが素晴らしく美味しく、ロケーションも良いと熱弁を振るい、挙げ句に涼矢と行けとさかんに勧めるものだから、分かった分かったとその場しのぎの返事をしたのだ。するとエミリは和樹のスマホを指さして、さあ今ここで予約しろ、その店は一ヶ月先まで予約がいっぱいなんだ、と迫ってきた。 「そんな先の予定、まだ分かんないよ」 「何言ってるの、もう六月だよ。誕生日でしょ」 「俺、誕生日二月だけど」 「違う違う、涼矢の」 「あいつは七月」 「だから」 「……ああ、そういうことかよ」 「今年は日曜日だし、ちょうどいいじゃない。和樹とここで会ったのもタイミングよすぎだよ、運命だよ運命。ほら、さっさと予約して」  ひとの彼氏のことに何をそんなに一所懸命になるのかと思うが、涼矢はエミリの初恋の相手だ。……いや、初恋かどうかは知らないが、とにかく高校三年間ずっと想ってきた相手だ。誕生日をチェックするのも当然といえば当然――なのだろうか。高校時代なんてとっくの昔のことなのに。  そんなことを考えながら、エミリの言うとおりにスマホでレストランの予約を取った。かっきり一ヶ月前からネットでのみ予約可能なシステムのようだ。今日は六月八日。七月七日の予約解禁日だ。確かに運命的なタイミングな気がしてくる。 「エミリ、自分のほうはどうなの。そもそも誰と行ったんだよ、その店」  涼矢のことがまだ気になるのかを探るように、和樹は言う。 「友達だってば」 「恋人じゃなくて?」  ストレートに尋ねると、エミリはサッと顔を赤らめた。 「ま、まだそんなんじゃない」 「これからそうなりたい相手ってことっすか」 「うるさいよ」  嘘のつけないエミリだ。図星なのだろう。涼矢に思いを残しているわけではないことに安堵しつつ、彼女の「嘘」に騙されたことがあるとすれば、まさにその、涼矢に片想いしていたことぐらいだと和樹は思い、それからすぐにそれを否定した。――あれは「嘘」をついていたわけじゃない。ただアクションを起こさず片想いしていただけだ。涼矢の俺への思いと同じだ。――和樹はそれもまたすかさず否定する。――違う。同性愛者であるということ自体ひた隠しにしていた涼矢と違い、エミリの片想いは、少なくともカノンをはじめとした親しい女の子たちとは共有されていた。涼矢自身もうっすらと気付いていた。俺が気付かなかっただけだ。俺が他人の気持ちに鈍かっただけだ。 「でも、それなりにうまく行ってるんだろ?」 「なんでそんなこと分かるのよ」 「だってうまく行ってないなら、涼矢の誕生日にその店勧めたりしないだろ?」 「……」 「予約完了、と」和樹はスマホからエミリに視線を移動させる。「どういう相手か知らんけど、そのまま良い感じに進むといいな?」 「どうせまた変な男だと思ってるんだろうけど、今回は違うからね。別れるようなことになったとしても、そのときは、絶対あたしのせい。彼はほんとにいい人だから」 「えー、俺がちゃんと見てやるから、そいつ、紹介しろよ」 「大丈夫だって。そのときが来たらちゃんと紹介もするし」エミリのスマホが着信を知らせた。「噂をすれば、だ」エミリは立ち上がる。「じゃあ、おつきあいありがとさん。行くね」 「おう。またな」  たまたま街なかで遭遇して、互いの次の予定までの空き時間が似通っていたから、ファストフードで時間つぶしがてら近況報告をしていたのだ。時計を見るとエミリの滞在時間は三十分もなかった。  そうして迎えた七月七日。エミリお勧めのイタリアンレストランは確かに素晴らしく美味しくサービスも良く、高層階から見下ろす夜景は美しく、そんなロマンチックなロケーションの中、男二人での食事を奇異に見る視線もなく、涼矢は終始上機嫌で、なにひとつ悪いことはなかった。  だからこそ、最後に雨にたたられたことが恨めしい。 「ここまで濡れてたら着替えたほうが早くないか?」  和樹はクローゼットに目をやった。 「んー」  曖昧な返事をしたかと思うと、涼矢は和樹の手首をつかみ自分のほうに引き寄せた。 「わ、馬鹿、俺まで濡れるだろうが」 「一緒に着替えればいいだろ」 「え」 「その前に一緒に脱いで、一緒に風呂入って」 「は? なんで俺まで」 「そうしたら今日、最高の誕生日になるけど?」  和樹は一瞬ポカンとしてから呆れたように笑った。 「はいはい、今日はおまえが主役だもんな。なんならオプションでそのあと一緒にベッドに入る、もおつけいたしましょうか?」 「最っ高」  部屋の外の雨音はだいぶ小さくなっていた。この分だと間もなく上がりそうだ。七夕の恋人たちの逢瀬もギリギリ間に合うかもしれない。そうだといいなと、和樹は思った。 おわり

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