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第158話 その日は良い天気 *「その恋の向こう側」番外編
その日は晴れていたはずだ、と佐江子は言った。ところが正継は雨だと言う。初めての、そして唯一の我が子が生まれた日の天気について、父親と母親の記憶が食い違うとはどういうことだと涼矢は思う。もちろん当の一人息子たる涼矢の記憶にあるはずもない。生まれてすぐにNICUの保育器に入れられた記憶だってない。
「私も生んだあとのことはよく覚えてないんだよね」
佐江子が言った。
「意識朦朧としていたんじゃないか。難産だったから」
正継が言う。
「でも産声は聞こえたよ。すごくホッとした」
佐江子は小さな赤子を懐かしむ目をする。目の前にいる、今では180センチを超えるまでに成長した涼矢のことは、逆に見えていないかのようだ。
「だから、雨だったんだよ」正継はまた天気のことを蒸し返した。「病院から連絡が来て、慌ててタクシーで駆けつけようとしたんだけど、急に降り出したところだったものだから乗り場がひどく混雑していて。あのときは焦ったなあ。病院から帰るときにもまだ降っていて、院内のコンビニでビニール傘を買った」
そこまで具体的な描写をする以上は、きっとこちらが正解だろうと涼矢は思う。
「じゃあ、田崎さんが正解だ」佐江子もあっさりと意見を翻した。「でも、私のときは晴れてたんだよ。陣痛が来てタクシー呼んだときはね。そのあとはウンウン唸って必死だったんだからお天気どころじゃない」
「それもそうだ」
正継はにっこり笑って頷き、その直後に、あ、と小さな声を上げた。
「何よ」
「いや、やっぱり晴れていたんじゃないかと思って」
正継は指先で顎を掻きながら言った。
「帰るときも降ってたんでしょ」
今度は佐江子が「雨」派に転じる。
「だって佐江子さんがウンウン唸っていたのって、三日も続いたじゃないか」
「うん、そうだけど?」
「私の記憶はその初日の話。まだまだかかりそうだからいったん帰ったほうがいいと言われて」
「ああ、そうか」
「七日は、だから、晴れていたんだと思うよ。涼矢に産着を着せて私の運転で帰っただろう? あのときは良い天気だった」
「それはだって、だいぶ後でしょ。NICUからGCUに移って……退院なんて8月に入ってからでしょうが」
「ああ、そうか」
佐江子と同じ相づちを、今度は正継がする。
佐江子は笑い、それから、ふう、と長く息を吐いた。
「あのときは分刻みで保育器の様子をチェックして、毎日毎日いつ涼矢を連れて家に帰れるのかって、それこそ指折り数えていたっていうのに、今となったら生まれた日のことも退院した日のことも曖昧だなんて、人間の記憶なんて宛てにならないものだね」
「まったくだ」
「お天気のことなんて、尚更」
「……まあ、良い天気だったってことにしておこう」
「なんで?」
「私たちが愛する息子に出会えた日なんだからね、織り姫さんたちだって逢瀬を楽しませてあげたいじゃないか」
「なによ、それ」
佐江子は笑う。
涼矢は知っている。コレクター気質の正継は、涼矢が生まれた日の新聞を取ってあることを。それを見れば天気なんて一発で分かる。もっと言えば、そんな古い新聞を持ち出さずとも、ネットで調べれば秒で解決するだろう。佐江子だって分かっているはずだ。でも、事実がどうだったかなんて、きっとどうでもいいのだ。そもそも、晴れイコール良い天気、でもあるまい。たとえば農作業においては適切な時期の雨は豊穣をもたらす「恵みの雨」だ。あの日、確かに巡り会えた命があった、そのことだけが彼らにとっての重要なできごとで、実際の天気がなんであろうと「良い天気」なのだろう。
「なあ、自分が生まれた日の天気って知ってるか?」
涼矢は和樹に尋ねてみる。
「さあ、知らないな」
「二月なら、雪降ったりしてたかもな」
「かもな」
その話題に大して興味なさそうな和樹を見て、涼矢は安堵する。――その日におまえが生まれた。そして今ここにいる。ならば雨でも雪でも晴れでも、その日は「良い天気」だったんだ。
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