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小さくつぶやいて、手帳を閉じた。じっと花の写真を見つめて、ぶわりと歪んだ視界に俯いた。 そうだ、今の俺には、この花の意味も、この血の跡も、まるで分らない他人事だ。 それがひどく虚しくて、悲しかった。 「俺は、……なんで」  一年前も、桜庭邸の地下室が一番最初の記憶だった。閉じた手帳を力任せに両手で握る。花の写真だけ、俺の膝の上にあるのは、この花がどうしようもなく悲しいからかもしれない。 一年前、目が覚めた時、俺が覚えていたのは『自分が桜庭優呉であること』と『湊が兄である』と言う事。兄貴はいつも、俺が目を覚ますと「おはよう、今の気分はどうかな」と聞いてくる。それは検診の時も同じだ。 「その写真、日付が書いてあるだろう」  牡丹さんがふいに俺の膝に置かれた写真をとんとんと叩く。俺はあふれた涙を袖口で拭い、また写真を裏返した。  日記の日付は、十年前の四月から。  この写真の日付は、十一年前の四月だった。 「………」 「お前が今握っているその手帳の最後、読んでご覧」 黒い手袋をした牡丹さんの手が、まだ流れる俺の涙をわずかに拭う。  俺は手の中でぐしゃぐしゃになっていた手帳をまた開き、最後のページを開いた。 「これ」 「お前は、十一年前から見た目が全く変わっていない。だから、私は最初に聞いただろう?誰の体なのか」  手帳の一番後ろには、もう一枚写真がはさんであった。これも下半分は血まみれだ。そして、日付は十一年前の四月。自分の、今の自分とまるで変わらない「俺」の写真だった。写真がはさんであったその最後のページには、滲んだ赤いインクで文字が書いてある。 助けて とそう書いてあった。走り書きだ。まるで時間がなかったとでもいうような、汚い走り書き。 助けて、死にたくない。それは、俺がいつも夢でつぶやく最後の言葉。その後は、必ず目が覚める。目が覚めて、生きている自分に安心する。 同時に、落胆もしてしまう。 「俺は、誰……」 「お前は、確かに桜庭優呉という人なんだろうけれど、その体も、記憶も今は削れてしまっている」 「――――でも、だって、何も覚えてない。兄貴は教えてくれないし、調べても何もわからなかった。あの街の図書館も、記憶を取り戻す手段の載ってた本は全部試した。でも、何も思い出せなかった」  この手帳を見ても、確かに俺の文字なのに、書いた記憶がない。 「……人の子は、難儀だね」  牡丹さんのため息が聞こえた。  どうして、兄貴は何も教えてくれないんだ、どうして、俺は確かに牡丹さんを、あの花の写真の意味を、この手帳の内容を知っているはずなのに、何もわからない。 「お前に、一つお守りをあげよう」 手の甲で俺の涙をぬぐいながら、牡丹さんが困ったように笑う。この表情を、俺は確かに知っている。遠い昔から、知っているのに。 「おまもり」 「そう。お守りだよ。」 手を出しなさいといわれ、素直に両手を差し出した。掌に、とん、と何かが置かれ、俺はそれをじっと見つめる。 「赤い、…指輪?」 小さな赤い指輪。血のような赤だ。 「もう眠りなさい。人の子。この指輪をしっかりもって」 これはお前を守ってくれる。  その言葉に誘われるように目を閉じた。

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