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わからなくなってしまったんだ。そう言って牡丹は困ったように笑う。照らされる蝋燭の淡い橙に、金色の目が揺れて見えた。ゆらり、ゆらり、迷い子のように、光が揺れる。 「………でも、会いたかった。ずっと。会えるなら、そばに居られるなら、それが良かった。お前は私が知らなかった感情を私にくれたと言うのに、なくしてしまった」 どうしてこの人はこんなにもかなしそうなのか、どうして、こんなにも矛盾を孕んだ危うさがあるのか。俺が渡した腕時計を握りしめて居るのに、こたえが出ないのか。 「長話をし過ぎたね。もう帰った方がいい。下まで送ろう」 はは、と笑い、立ち上がる牡丹の着物の袖を掴んだ。黒い着流しの袖を僅かに張り、牡丹が俺を見下ろす。 中腰になって居た姿勢を正し、俺の前にあぐらをかいて座り直した。 「どうした?」 「帰らない」 「―――――なぜ?」 帰らない。 帰りたくない。今、牡丹の側から離れたくない。そう思った。これで離れてしまったら、きっともう二度と会えないような気がして、立ち上がれない。 「……困った子だ」 胡座をかいた片膝に肘を置き、手の甲に顎を乗せながら牡丹が言う。 「帰せなくなるから、帰りなさい」 「っかえさなきゃいいだろ」 「優呉」 まるで叱るように、言い聞かせるように名前を呼ばれて、牡丹の顔を見る。と牡丹は少しだけ目を伏せて、開いた方の手で腕時計を揺らしながら口を開いた。 「その手帳、続きは見たかい?」 「へ」 「私は写真と、最後のページしか見ていないけれど、お前は全部、見たのかな?」 ちゃり、ちゃり、と腕時計のベルトが音鳴らしながら揺れる。牡丹の視線は腕時計に注がれたままだ。 「いや、さっき見せたページから、見てない」 「おそらく、真っ白だよ。全て白紙だ。日付だけ書き、文章はない。生きて居る日付を書きづつけたんだ。お前は」 ちゃり、と、また音がなる。その音がやけに響いて、耳についた。 「………一年に、一冊。生きた日付だけを記して、他にはおそらく写真しかない」 「なんで」 「お前が言ったからさ。私に。日記を書いているけど、日付以外に書くことがない、とね」 「…十一年前に…?」 「そうだ」 「なら、なんで首鳥塚は書いてあったんだ」 「―――――…」 「牡丹は、……俺を捨てて、諦めて、それでいいのか?今、目の前にいる俺はもう、要らない…?」 震える声音に、牡丹が揺らす腕時計の音だけが響いて、俺は拳を握った。 「俺が今ここで帰れば、牡丹は満足するのか…?怒って、指輪を返して、かえればそれで、牡丹は満足?俺が死んでも、いなく、なっても、もう、きにしないのか。いないほうが、ましだっ、て、そう、おも、う?」 声が震えて、うまく言葉を紡げなくて、拳を握ったまま下を向いた。いつの間にかとまっていた涙がまた溢れ出して、握りしめた手の甲を濡らす。 「もう、あえなくて、いい、って、きらい、に」 俺を、嫌いに? 「―――――…」 牡丹はただ、腕時計を揺らしながら、俺の言葉を聞いているのか、目は伏せたまま、もう目も合わない。 「………っ」 唇を噛んで、嗚咽を殺した。握りしめた拳が震えて、落ちていく涙を溜めていく。ぶつり、と音がして、口の中に鉄の味が広がった。 「…」 ちゃりちゃりと響く腕時計が揺れる音。僅かに灯る明かりに、俺は静かに目を閉じた。多分、噛み締めた唇が切れたんだろう。少し痛いけど、今はそれよりももっと、言葉を連ねるのが辛かった。 「…………は」 短く息を吐いて、握りしめた手の甲で唇を拭う。やっぱり、血がべっとりとついていた。 「もう、いいや」 小さく、吐く息とともに吐き出した言葉に、腕時計の揺れが止まる。 「優呉」 「…………きおくなんて、さがさなきゃよかった」

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