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10「A」◎

睦人を近くから見たのは数日前のことだ。 『あ』 休憩時間。廊下を歩いていた渥は、学校のトイレから出てきた睦人とばったり遭遇した。 思わず出たらしい声にハッと気付き、片方の手で口元を抑える仕草を見せる。 華奢でもなく筋肉質でもない、平均的で夏休み明けだというのに日焼けもしていない腕。 ……一人か。 爪を綺麗に切り揃えた指先から、まだ新しい上履きまで目をやり一度背後を振り返る。 すぐに顔を戻すと渥は足を止める事なく歩き続けた。 ――見たところ変わった所は無さそうだ。 いつものことながら周りからの視線を感じる。勘違いだと思うには無理があるほど数は多く、ここで睦人に話しかけることは避けるべきだろうと判断した。 さらに先程振り返った際に、クラスメイトの存在を見つけたのだ。睦人とも仲が良い。 恐らく様子を見に来たのだろう。 丁度あくびをしていた為、本人と目が合う前に渥は視線を外す。 一人で居るのかと思ったが、いつものように頼りになる相手が傍に居る。 それならいい。自分の出る幕はない。 渥が思うことはただ一つだけ。 睦人にはただ平穏に、普通の学生生活を送って欲しい――… 渥にとって《運命の番》とは、どうでもいいワードの一つであり、微塵も興味がなく、そもそも根本的に信じていない。 なのに、あの日受けた衝撃が今でも忘れらないのだ。 『渥! お前…渥だろ!?』 何の前触れもなく突如目の前に現れた。 何事かと理解するよりも先に、周りの景色がボヤけて色褪せている事に気が付いた。 鮮明に色を付けていたのは興奮気味に話しかけてくる数年ぶりに会う幼馴染みだけ。 むしろ、渥の世界はいつからか随分と色褪せた世界に変わってしまっていたのかも知れない。 昔から変わって居ない髪の色も、肌も目も唇の色さえクリアに見える。 カッターシャツの白など眩しいくらいだ。 長い年月を会わなかったというのに、睦人だと即座に気付けた事も驚きだった。 いつもならば冷静に判断できるのだが、予想外の相手に一瞬言葉が出なかった。 渥は自分の置かれている状況を忘れて、思わず「睦人」と口を開きかけ、止まる。睦人越しにたまに言葉を交わすクラス委員長と目が合い、周りの視線に気付いた。 全員がこちらの様子を伺っている。 口を止め、手を止め。 笑えない程に怖い顔で見つめてくる女もいる。 ゆっくりと考えている時間はなかった。 『誰だ、お前』 傷付くと分かっていた筈なのに。 渥は再会を喜ぶ睦人に向かって、冷たく言い放っていた。

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