272 / 289
16「A」◎
睦人の母親である香織からの言葉にそんなことがあったのか、と渥は微笑んだ。
引き留められるまま夕食をご馳走になり、遅れて帰宅した睦人の部屋に上がれば、自分にも少しは優しい態度を向けろと拗ねる顔。
無自覚な可愛さにまた頬が緩む。愛おしさが溢れ、つい触れてしまう。
『なんとも思ってないのに、やめろよ…』
なんの計算もない涙。潤んだ瞳で睦人は好きでもないのにキスするな、と渥に言う。
キスしたことではなく、好意の無いキスをするなと怒る。
自分の発した言葉の意味に気付いているのだろうか。
そういえば香織が渥の好物だと出してくれたプリン。
あれは睦人があまりにも楽しそうに容器から皿にひっくり返すものだから、その顔見たさにいつの間にか渥の好物になっていた。
睦人が隣に居なければ、進んで食べるわけでもないのに――
つい意地の悪い事を言ってしまうのは、Ωだからか。それとも、睦人だからか。
分からない。
◆
クラス委員長から睦人が発情 で苦しんでいると聞いた時にも、迷った末に渥はあの家へ行った。
してやれる事があるのか自信のないまま、ひとまず様子だけでも見ておこうと思ったが、想像よりも青白い顔に放っておけなくなってしまった。
『αが傍にいたんだろ。どうして薬に頼る方を選ぶ? 抑制剤で副作用に苦しむくらいならαに愛されて気持ちよくなった方が賢明だと思わないのか』
『佳威は大切な友達だから、自分の欲望満たすためだけに利用するみたいなこと…したくない…』
αを利用する道を選ぼうとせずΩの欲に必死に抗う姿に驚いた。
Ωは皆そうじゃないのか。
αは利用するもの――違うのか。
『も……だめだ…こわい…。俺、変になる…へんになっちゃうよ……おねがい、たすけて……助けて、渥』
助けを求める指先はずっと震えていた。
Ωとしての変化に困惑し、怯え、不安で押し潰されそうになっている。
初めての発情 に訳も分からず酷い顔で泣きじゃくる睦人を、今だけは腕の中で甘やかしてやりたいと思った。
せめて抑制剤の副作用からだけでも解放されて欲しい。
『…き…、…すき、だよ。渥、は…? …おれのこと、すき…?』
何度口付けても心地良い唇から、渥に誘われるまま「好き」の二文字が零れ落ちる。
αだから、だろう。きっと。
自分を見ているわけではないのだ、と渥は思い込む。
『こうやって、誘惑されたのか…あの人も』
結局は嫌悪するΩの姿と重なってしまうのだ。
睦人のことだけを考えている筈なのに、また傷付る。どうしてこうも自分の心と真逆のことをしてしまうのだろう。
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!