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矢田とミキちゃんの姿が完全に見えなくなると、渥はクルリとこちらを向いて歩いてきた。 その表情は無表情で何を考えているのかよく分からない。 「渥…お前…」 「ん?」 「俺に話しかけるなって言っただろ」 「……第一声がそれか」 無表情が分かりやすく呆れ顔になった。 「だって…お前が言ったんだろ」 我ながら子供っぽいことを言っているのは理解している。しかし、あの言葉に俺がどれだけ傷付いてショックを受けたのかを思い出すとどうにも素直になれなかった。 しかもなんなら渥の俺に対しての第一声はあろうことか童貞だぞ。思い出したら腹が立ってきた。 「第一声なら渥の方がひどいだろ!」 「ん?…ああ、童貞卒業を邪魔したことを怒ってるのか」 「はあ!?」 何故だろう。 微妙に会話が噛み合ってない。というよりも分かっててワザとそう言ってきているような気もする。 「つーかさっきからどいつもこいつも童貞童貞って…そんなに童貞なのが悪いかよ!」 「誰も悪いとは言ってないだろ。…俺以外にも言われたのか?」 そう言うと渥は人懐っこい猫みたいに笑った。 「お前相当そういうオーラ出してるんだな」 「あ………、って、ちょっと待て!そんな…分かるのか…?」 渥の笑顔に呆気に取られていたが、そう言われると途端に不安になる。 「童貞どころか…」 そんな俺を見て渥が近寄ってきて顔を覗き込んだ。ち、近い…!! 「まだ処女なんだろ?」 「!!?」 思わず飛び退くように離れる。渥を見ると先程までの笑顔とは違う笑みを浮かべて俺のことを面白そうに見ていた。 「お前がΩね…、なんとなくそんな気はしてたけど。矢田にフェロモンがバレるなんて、もしかして矢田とヤっちゃった?」 「すっ、するわけないだろ…!」 「Ωなことは否定しないのか。相変わらず分かりやすいなお前は」 「あっ…」 嵌められた…!! そう気付いた時には既に渥は意地悪そうに微笑んだ。 「そうか、睦人はΩか」 「な、んだよ…!そうだよ!αじゃなくて悪かったな」 馬鹿にされる気がした。昔の渥ならそんなこと言わないって分かっているけど、今の渥は何を言い出すか分からない。 思わず次に来る言葉に身構えると、渥は俺の目を見てゆっくり形の良い唇を動かした。 「あーあ」 そう言って、目が離せないほど妖艶に笑う。 残念がるような、はたまた揶揄(からか)うような口調が一体どういう意味なのか俺には分からないし見当もつかない。 ただ、瞬きをすることさえ忘れて渥の切れ長の瞳を見ていた。 瞳の奥の限りなく漆黒に近い黒。美しい黒だ。 同じ日本人だとは思えない。 渥の瞳はただ真っ直ぐに自分だけを見ている、その事実が俺を酷く高揚させた。 そして渥の手がゆっくりと伸びてきて、俺の後頭部に触れる。 優しく引かれ、抵抗する隙もなく――渥は俺の唇を塞いだ。

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