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第9話

「……り……ゃん…」 声が聞こえた。女の人の声。それは分かる。誰かを呼んでるみたいだ。 洗いたての優しい石鹸の香りがするシーツに包まれて、窓が開いているのか涼しい風が頬を撫でていく。ミーンミーンと蝉が数日という短い人生を謳歌する音がBGM。 夏だ。涼しい夏。 気持ちがいい。 「りっちゃーん」 正確に聞き取れた名前は俺の名前。誰かが俺を呼んでいるらしい。 呼ばれているのは自分か。そういうことならいくら心地よくても起きなければ。 そう思い薄っすらと目を開けると、なんだか見慣れた天井があった。あのシミは俺が十数年間共にしたシミ。怖いテレビを観た夜なんかはあのシミさえも怖く感じたっけ、なんていう懐かしさが広がる。 ――ここ、引っ越す前の家だ… あれ?なんで俺、前の家に居るんだろう。 引っ越し先の現在の部屋の天井にはシミひとつ無かったはず。 つまりここは間違いなく俺が転校する以前まで住んでいた家。俺の部屋だ。 でも少し天井が高すぎるような気がする。 むくっと起き上がって辺りを見渡すと、使い慣れていた家具が少し大きく感じた。心なしか視線も低い気がする。 違和感を感じながら、ベッドから降りてタンスの横の姿見の前に立つと、細長く大きな鏡には今の二分の一くらいの俺が居た。 見るからに高校生ではない。そこに映るのは恐らく小学生の… 「…小四、くらいか?」 小さい。とても小さい俺だった。 黒髪に近いこげ茶の髪が寝癖でぴょこんと跳ねている。それを直そうと小さな手を伸ばした時。 階段下から母親の呼ぶ声がした。 「りっちゃんったらー!そろそろ渥くん達と遊ぶ時間じゃないのー?」 先程から、自分を何度も呼ぶ声は母親だったのかと納得しつつ勉強机の上に置いてある青色の置き時計を振り返る。 好きだった戦隊モノのキャラが書かれた文字盤上では13時30分をあと少しで回りそうな時間だった。 確かにやばい時間だ。 休みの日に遊ぶと言ったらお昼ご飯を食べた後、13時30分にどちらかの家に集まって遊ぶのが定例となっていた。そのことをすぐに思い出して俺は膝小僧丸出しの短パン姿で階段を駆け下りる。 そのまま玄関に走って行こうとしたら、階段下で仁王立ちをしていた母親にガシッと腕を掴まれて紙袋を手渡された。覗くと中には昔好きだった炭酸飲料が三つと生クリームの乗ったプリンが三つ。

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