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(第三者視点) 既に夜は更け、夜道を照らす等間隔に設置された街灯だけが眩しく光っていた。学生や真っ当な会社員の帰宅時間はとうに過ぎ、歩く人影は見当たらない。 昼間のように体力を削がれる程の暑さではないもののスーツを着ている人間からすれば心地いい温度ではない。早く帰ってシャワーを浴びよう、そんな声が聞こえてくるようなスピードで歩く一人の人物を追うように聞こえてくる足音。革靴が地面を蹴る独特の音だ。 「渥!待ってよ」 待ってと声を掛けられた男が、「アッちゃん」なんていう可愛らしい呼び名から「渥」へと変わって一度言ったことがある。「お兄ちゃん」とか「兄貴」とか、とりあえず呼び捨てで呼ぶな、と。 命令に近いものがあったが、兄の言葉に弟は首を傾げて「でもリクが渥って呼ぶから!」と満面の笑みを浮かべる。リクが呼ぶから、の意味が分からないと男は思った。 しかし無邪気な返事にこれ以上何を言っても無駄だと察してしまう。 後を追って来た相手の小さい頃を思い浮かべながら――渥は足を止めゆっくりと後ろを振り返った。 「お前はいつになったら呼び捨てで呼ばなくなるんだ」 「…はあ?なんのこと?」 渥の元まで辿り着いた有紀は急に訳の分からないことを言う兄の目の前で一度呼吸を整える。有紀の方を振り返り小言を漏らす渥は、彼らの父親そっくりだ。 いつ見ても完璧で非の打ち所がない。渥以上に容姿の整った人間は見たことが無いし、同じαだと言ってもきっとランクがあるのだと有紀はいつしか思うようになっていた。 「泊めてもらうんじゃなかったのか」 「もちろん泊まるよお。その前にコンビニ寄るの…ねえ渥」 有紀の額に薄っすらと汗が浮かぶ。有紀が汗をかいている光景が珍しいのか渥は面倒くさそうにではあるが話を聞く体勢をとる。 「どういうつもり?」 有紀の茶色がかった瞳が真っ直ぐに漆黒の瞳を見据えた。(はた)から見ればどちらも同程度の整った顔立ちであり、まるで似ていない兄弟だ。笑った顔が似ていると睦人は言うが、似ている部分は決して多くはない。 「なにが」 「さっきの。リクと結婚するとか、やめてよ、あんなの。冗談でしょ?」 「だから冗談じゃないって言ってるだろ。お前らはとことん俺の言葉を信用してないな」 「リクは俺のだよ!!」 静かな住宅街で有紀の声が響いた。いつもの飄々とした表情が消え、渥を強い視線で睨む有紀。整った眉が寄せられ、この場に睦人が居たならばいつもと違う雰囲気に目を見開いていた筈だ。 だが、渥は自分を睨み付けてくる有紀に驚くこともなく表情も変えない。

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