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第4章 7

 そうそう都合よく泉や池、川といった水場があるわけでもなかったから、旅の最中は身体や髪を満足に洗うことも出来ない。飲み水や草木についた露で布を湿らせ、顔や手足を拭うのがやっとだった。だからこそ、実に数日ぶりに水に浸かる気持ちの良さは格別で、クガミの口元に笑みが浮かぶ。  泉の水深はクガミが思っていた以上に深く、水底に足をつけた状態でクガミの腹辺りまである。水は冷たいが、イザナの神域内は穏やかな気候のため、たいして気にならない。  クガミは頭までどっぷりと浸かり、全身で水の感触を味わった。宵ノ国でも、春や夏の比較的温かい時期に海でよくこうして潜ったり、魚を獲ったりしたものだ。冷たくも、自然の恵み豊かだった故郷の海を僅かに懐かしく思いながら、クガミは水中から顔を覗かせた。  水底に足をつけ、ぶるりと頭を振る。 「動物か何かのようだな」  イザナの笑い声が聞えたが、クガミは無視をして頭をわしわしと洗った。ついでに身体も掌で擦り、汚れを落としていく。  顔や首、腕から胸へ、掌で擦る部分を移動していきながら丹念に洗っていると、不意に水音が聞えた。魚にしては大きい水音だったが、案外深い泉であるから大物が居たとしてもおかしくはないのかもしれない。クガミがそう思い、脚を洗おうと手を伸ばしたところで、背後からその手を掴まれてしまった。  自身の褐色の肌とは違い、白磁のように滑らかで白い肌に覆われた二本の腕が、クガミの腰と腕との隙間からニュッと突き出ている。 「一体、何のつもりだ」  クガミはムッとした声で、背後から抱きつくような格好でクガミの腕を掴むイザナに話しかける。 「お前が無視するのが悪い。構え」  拗ねた響きのイザナの声が耳のすぐ側から聞えてきて、クガミは、何を子供のようなことを言っているんだ、と内心で悪態吐いた。二十五歳の自分よりも、イザナの見た目は年上に見える。それなのに、中身が子供とあまり変わらないとは。  クガミはイザナの存在を無視して、もう一度腕を擦り始めた。きっと無視を続けていれば、そうのうち諦めて水から上がるはずだ。そう踏んでいたのだが、クガミの予想は甘かった。  クガミが無言でいることをいいことに、イザナの手がクガミの身体のあちこちに触れ始めたのだ。  腰骨の辺りをがっしりと両手で鷲掴まれ、数秒も経たぬうちに今度はわき腹を撫で上げられた。何を気に入ったのかは分からないが、鎖骨の窪みや日頃の鍛錬で鍛えられた厚みのある胸を執拗に撫でられ、ぞわりとした感覚がクガミの足元からじわじわと這い上がってくる。 「……洗っている最中だ」  イザナの手付きを無視できなくなったクガミが、さも迷惑だといったふうに告げる。が、イザナの手の動きは止まらなかった。寧ろ、 「知っている。手伝ってやるから、感謝しろ」  などと恩着せがましい言葉が返ってきて、クガミは頭痛を感じた。いっそイザナを突き飛ばしてやろうか、とも考えたが、それこそ子供じみた考えだと思いクガミは思い留まる。 「いらない。それより、離れてくれ」  何が悲しくて自分よりも体格の良い男に抱きつかれなければならないのか。クガミはうんざりしながら、肘で背後のイザナの身体を押した。  と、背後でバシャンッ、と大きな音が聞え水飛沫がクガミの背に掛かる。驚き振り返ったクガミの目に、丁度水の中から顔を出したイザナの姿が映った。  一体何があったのだろうか、とクガミは目を瞬かせる。クガミは肘で軽く押しただけである。それに、体格差を考えるとクガミが軽く押したくらいではイザナの身体はびくともしないはずだ。 「どうしたんだ?」  水に濡れて張り付く赤い長髪を煩わしそうに掻き上げるイザナに、クガミはそう尋ねる。すると、赤い瞳でじろりと睨みつけられた。  自分の質問がイザナの機嫌を損ねてしまったのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。 「……滑った」  憮然とした声が聞え、ふいっとイザナが顔を背けた。その頬が薄っすらと赤く染まって見える。なるほど彼は照れているのか、と理解したクガミの唇から「ふ、ははッ」と笑いが零れた。  滑って水の中に突っ込んだ挙げ句、その失態を見られたことに対して照れるなど、イザナには人間臭さといったものを感じる。神といえば、高潔でもっと近寄りがたい雰囲気を纏っているものだと思っていたのだが、クガミはイザナに対して親近感すら抱いていた。 「笑うな」  むくれたような声を出して、イザナがクガミを睨みつける。鋭い目つきは怖くもあるのだが、それが照れ隠しであると分かっているだけに中々クガミの笑いも引っ込まない。 「いや、悪い……でも、ふッ、くく」  腕で隠した口元から、謝罪と笑いが同時に零れた。そもそも、こうやって笑うこと自体がクガミにとって珍しいことであるから、どうやって笑いをおさめたらいいのか分からない。捩れそうな腹を片手で押さえ、肩を揺らしていると、唐突にイザナによって腕を掴まれた。  油断していたこともあって、クガミの身体がイザナの方へとぐらりと傾ぎ、大きな音と水飛沫を立てそのまま二人して水の中へと沈む。 (……ッ)  焦点がぼやけてしまうほど近くにイザナの顔が見えた。水の中で揺らめき踊る赤い髪が、まるで炎のようだとクガミが思っていると、頬にイザナの掌が触れた。するりと、撫で上げられた次の瞬間、クガミはイザナに口付けをされていた。  水と同じ温度の柔らかなイザナの唇が、クガミの上下の唇を柔らかく食む。ぬるりとしたイザナの舌がクガミの唇に触れた瞬間、クガミは自分を犯したあの蔦を思い出した。ぞわりと気色の悪さが全身を駆け巡り、クガミは決して開けるものか、と頑なに唇を閉ざした。 (……息が、苦しくなってきた)  クガミは水面に顔を出そうとした。しかし、イザナがクガミの腰を抱くようにして密着しているせいで浮上することができない。息苦しさにもがいている内に、僅かに開いた唇の隙間からイザナの舌が侵入を果たす。  酸素が気泡となり水面へと昇っていく中、クガミはイザナによって咥内を蹂躙された。ぬるぬると舌を擦り合わせるように愛撫され、口蓋を嘗められる。クガミの背を悪寒が走るのと同時に、身体の中に何かが入り込んでくるような感覚も味わっていた。

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