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第5章 2
急いだところでやはり人間の足での移動は時間がかかる。移動速度を上げたいのならば馬を借りるしかないが、馬を借りるにも金が掛かる上、クガミの手持ち金では恐らく脚の遅い馬一頭すら借りることが出来ない。
というのも、村では現品交換の方が主流であったし、クガミは貰った給金ほぼ全てを義父母に渡していたからであった。
そんな状況下であるからこそ、イザナの提案は非常に魅力的だった。
ただ、踏ん切りがつかないのは、やはりイザナがクガミに向けてくる好意と、蔦で嬲られた一件があるからだ。
(……俺が少し我慢すればいいだけのことだ。命をとられるわけではないのだし)
クガミは自分にそう言い聞かせる。そうして、静かな声で「分かった」と告げた。
「ヨキが見付かるまでは世話になる。だが、ヨキが見つかったのならば、俺はここを出て行く。これだけは譲れない」
イザナを真っ直ぐに睨みつけ言い切る。なにも馬鹿正直に告げる必要は無かったのかもしれない。十中八九、ヨキが隣にいたのならば『黙っておけばいいのに』と小言を言われているはずだ。
イザナがクガミを深い赤色の瞳で見つめる。
気分を害して協力を得られなくなる可能性も考えてはいたのだが、どうやらイザナは怒ってはいないらしい。
立てた片膝の上に腕を置きながら
「……まあ、いいだろう。ヨキとやらを見つけ出すまでにお前を篭絡すればいいだけの話だ」
と言い、妖艶な笑みを唇に乗せた。
ヨキを一途に想っている自分がイザナに篭絡されるはずも無い。クガミは確かな自信があった。
イザナの協力が得られたクガミは、身支度もそこそこに立ち上がる。
「なら、早速――」
と、気が急くままに部屋の外へ出ようとするクガミの襟首が、後ろから引っ張られた。
首が絞まり、うぐ、と声を上げながらクガミの足が止まる。
「身支度も朝食も済んでいないだろ。きちんとしてからでないと、道を開いてやらんからな」
クガミの背後からイザナの呆れ声が聞えた。それと同時に掴まれていた襟首を離され、クガミは咳き込みながら振り返った。
何をするんだ、と睨みつけると、イザナが冷たい視線を投げて寄越す。
「お前が猪突猛進で人の話を聞かないからこうしたまでだ。襟首を掴まれたくないのならば、俺の話をきちんと聞いてからにしろ」
確かに、自分が一人で突っ走る癖があるのは分かっている。ヨキにも、『猪じゃないんだから、ちゃんと考えて慎重に動きなよ』と呆れながら言われたことがあった。
が、イザナの話が一々長い上に回りくどいのにも原因がある。今まで知らなかった知識をいっぺんに頭に詰め込まれるこちらの身にもなってみろ、と文句を言いたい気分だ。
しかし、文句を言ったら言ったで更なる小言が飛んできそうなので、クガミは口を噤んだ。
「俺は朝食をここへ持ってくる。その間に、身嗜みを整えろ」
そう一方的に言い残して部屋から出て行くイザナの後姿を見送り、クガミは寝ている間に乱れてしまった着流しを脱ぎ始めた。
「着替えは……」
全部脱いで下帯だけの姿で辺りを見回す。
と、つい先ほどまでクガミが横になっていた寝具の側に几帳面に畳まれた小袖や袴、襦袢が置いてあった。イザナが先ほど来た時に置いたのだろう。
(……口煩い母親か、もしくは嫁をもらった気分だな)
衣服を手に取りながら、ぼんやりとそんなことを思った。顔に似合わず、と言ったら失礼だろうが、美しくも男らしいイザナの外見からはやはり家事をするようには見えない。
自分と同じように剣術や武術を得意としていると言われた方が、まだ納得が出来る。
(……やはり、外見では計れないものなんだな)
クガミは、沁々とそんな事を思った。
そうして、着替え終えた頃にイザナが朝食の乗った膳を一つ持って戻ってきた。その両隣には、緑色の蔦達が主人を守るかのように脇をかためている。
膳を持っていて両手がふさがっている状態で引き戸を開ける筈がないので、恐らくイザナの両脇にいる蔦が戸を開けたのだろう。便利な生き物だと思う反面、初見が初見であっただけにどうしても嫌悪感が拭えず、クガミは顔を顰めた。
「そんなに嫌がってやるな。こいつ達も傷付く」
イザナが、畳の上に胡座をかいて座るクガミの目の前に膳を置いてやりながら言った。
「嘘をつけ。傷付くはずがないだろう」
クガミは信じられない、と言ったふうな視線をイザナに向け、手を合わせた。そうして、小さな声でいただきます、と言う。まだ温かな味噌汁に、青菜、魚の塩焼き。それに山菜と一緒に炊き込んだ飯、煮物と実に品数が多い。昨日にも負けず劣らずな栄養の考えられた食事に、クガミはイザナのマメさに内心舌を巻いていた。
(女性だったならば、男が放っておかなかっただろうに……)
つくづく外見と中身が噛み合ってない奴だ、などと失礼なことを考えながら、クガミは食事に箸をつける。
味噌汁を啜り、飯を頬張る。相変わらず美味い、と米粒を噛み締めながら思っていると、真正面からイザナがクガミをジッと見ていることに気が付いた。
「……注視されていると食事しにくいんだが」
「ああ、悪い。お前の食べている姿が色っぽくて、つい見惚れてしまった」
クガミは呆れて固まった。
一体この神の頭の中はどうなっているのだろうか? 自分には理解し難い思考であることだけは確かだ。楽しげに自分を見つめるイザナを無視することにして、クガミは食事を続けた。
そうして、全ての品を平らげてご馳走様、と手を合わせたところでイザナが、「さて」と口を開いた。
「これから櫻ノ国の首都、ハクオウに案内するが――」
不意にイザナが言葉を切った。彼が真面目な顔つきになったことから大事な事を言おうとしているのが分かり、クガミは静かに見守った。
「俺の姿はほぼ他の人間には見えなくなる」
ぴんと人差し指を一本立ててイザナがそう言った。
「は? アンタくらい力の強い神ならば、人間の目に見えるようにするのも簡単なんじゃないのか?」
昨日聞いたことと正反対の言葉にクガミは疑問をぶつけずにはいられなかった。昨日のことであるからまさかクガミの勘違い、というわけでもないだろう。となれば、イザナがクガミを謀ったか、はたまた何かしらの理由があるはずだ。
クガミは、言い逃れは許さないとでもいうように鋭い視線をイザナに向けた。
もとより答えるつもりであったのか、イザナはそんなことか、と簡単に口を開いた。
「確かに簡単だが、神域内ほど俺の力や清浄な気で満ちているわけでもないから、人の目に見える状態を何時間も持続させるのは酷く疲れるんだ」
「ということは、俺にもアンタが見えなくなるのか?」
「いや、お前は俺の気を取り入れてるから俺の姿は見えるままだ。それに、気付いていなかっただろうが、お前には巫子の素質がある」
つっ、とイザナの人差し指の先を顔の前に向けられ、クガミは目を瞬かせた。
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