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第4章 違いー1

 ぼんやりとした視界に、薄桃色が見えた。微かに甘い香りが鼻腔を擽り、遠くでは小鳥のさえずりが聞える。  自分は一体、どうしたのだったか?  靄の掛かったような頭で考える。  確か、ヨキを探して穴の中に飛び込んだのはいいが、辿り着いた先が櫻ノ国の最高神イザナの神域だった。そうして―― (……ああ、そうか……身体を弄ばれたのだったな……)  意識を失うその瞬間までクガミの中を蹂躙し続けていた蔦の生々しい感触が甦り、クガミはぶるりと身体を震わせた。催淫効果の抜けた冷静な今になって考えると、あのような得体の知れない物体を身の内に受け入れていたと思うと、ゾッとする。  やはり、あの時の自分はおかしかった。あんなもので自分が感じるはずがない。  仰向けのまま、ぐるぐると長考するクガミの視界に、パッと何かが映りこむ。  長い赤い髪がサラリと溢れ、クガミの頬を擽る。深い赤色の瞳が細められ、薄い唇の端が、クッ、と持ち上がった。 「目が覚めたようだな」 「……最悪の目覚めだ」  クガミは、不機嫌さを声に乗せて覗き込むようにしてこちらを見ているイザナを睨みつけた。  目覚めてまず目にしたのが、よりにもよってこの男とは。  クガミはうんざりした気分で半身を起こす。と、腰――正確には、腰の奥の方に痛みを感じ、クガミは微かに顔を顰めた。  気を失う前の事が全て夢であればいい、とさえ思っていたのだが。痛む身体と目の前の男の存在が、クガミにこれが紛れもなく現実なのだと告げていた。  ますますもって暗鬱になったクガミは、何気なく自身の身体を見下ろす。 (……服が、着せてある。それに、体も拭ってあるみたいだな……)  気を失う前は、服は着ているとは言えない状態であったし、体も蔦や自身が吐き出した液体でドロドロだったはずだ。それが小袖や袴、襦袢もきっちりと着付けてあり、蔦が散々這った肌もヌルつくような不快さが消えている。 (ということは、……こいつが俺に服を着せたのか)  クガミは、甲斐甲斐しく背を手で支える隣の男を見た。  まさか、気を失っていた自分がやったとは思えない。となると、あの場でそんなことが出来るのはイザナ以外に存在しないだろう。 (しかし……)  クガミは不躾であるのを承知で、イザナをまじまじと観察する。やはり気を失う前も思ったが、恐ろしいまでに顔の整った人間にしか見えない。寧ろ、人間である自分と違う部分を見つけ出す方が困難だ。  肌に突き刺さっているであろう視線など気にした様子もなく、イザナが大きな手のひらでポンとクガミの肩を叩いた。 「起きたのならば、まず飯を食え。それが終わったら、身体を清めに行く」  食事の支度をするためかイザナが立ち上がる。が、その着流しの右袖をクガミは掴み、引き留めた。  何だ、とでも言いたげに赤い瞳がクガミを見下ろす。なまじっか顔が整っているだけに、見下ろすだけでも相手を怯ませる迫力がある。特に赤い瞳は、虹彩が猫のように縦に細く尖り、見られている自分がまるで獲物にでもなった心地がした。  嫌に乾く喉を空いた自分の右手で擦り、クガミは口を開いた。 「……俺はアンタに従うつもりはない。故意ではないとはいえ、神域に入ったりして悪かった。直ぐにでもここから出ていくつもりだから、帰り道を教えてくれ」  イザナが自分にした理不尽な行為に対しての怒りはクガミの中で燻ったままだ。しかし、今はそれ以上にヨキのことが心配で仕方が無かった。  今頃、ヨキはきっと一人で居るはずだ。クガミ自身世間知らずだという自覚はあるが、巫子であるヨキはそれ以上に世間に疎い。また、クガミと違いヨキは身を守る術すらないのだ。そんな彼を、何が出るとも分からない森の中で一人にしておくなど、クガミには堪えられないことだった。  それに、森を無事に抜けていたとしても、また別の問題がある。神の住まう地である天津大陸だが、悪事を働く者も少なからず存在する。特に、この櫻ノ国は人の出入りが激しい分、悪人も多いと聞いたことがある。そうであるから、黙っていれば美少女も裸足で逃げ出すほどの美貌の持ち主であるヨキが一人歩きをしている姿など、悪人から見れば鴨がネギを背負って歩いているのと同じ。どうぞ浚ってください、と言っているようなものだ。  心配でいてもたってもいられなくなったクガミが立ち上がろうとする。が、イザナがクガミの肩をやんわりと押し留めた。 「それは無理だな」 「何故だ?」  取り付く島も無いイザナの言葉に、クガミは食い気味に尋ねた。  散々自分の身体を弄んでおいて、まだ神域に無断で立ち入ったことを根に持っているのだろうか?  そうだとしたならば、なんと狭量な神なのだろうか。それとも、神とは皆が皆この男のようなのだろうか。  そんなことを考えていると、クガミを見下ろすイザナの瞳に艶めいたものが浮かぶのが見えた。唇がゆるりと弧を描き、先ほどまで肩に乗っていたはずのイザナの手が、気がつくとクガミの顎を掴んでいた。 「俺がお前を気に入った。お前……いや、クガミ。俺の番になれ」  唐突な宣言に、クガミは珍しく口を開けたまま固まった。

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