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 白乃瀬邸の北に位置する柊の間。 「ただいま帰りました、大お祖母様」  曾孫を迎えた一族内一の権力者、紅葉の曾祖母にあたる白乃瀬マコはうっそりと笑みを浮かべた。 「よう帰ってきはりましたねぇ、紅葉」  年老いてなお衰えないその美貌に浮かべた笑みは有無を言わせぬ威圧感を他者に与えた。 「帰ってきて早々やけど、禊祓いをしてもらいます」 「え」 「先延ばしにしとった『水儀』を行ってもらわなあかん。儀式は四日後。禊は今夜から三日間。順繰りは三つ子から聞いとき。それまでに髪は黒染めしとくことや。長さは……もうちいっと長ければええんやけど、まぁそれはしゃぁないなぁ」  口を挟む隙なく紡がれた言葉に唖然とした。  水儀はやらないことで収まったんじゃなかったのか。 「え、あ、の、大お祖母様……? 水儀はやらないって」 「小鳥遊んとこに言われたんや。お告げ、やと。あそこは有能や。そんにお告げは絶対。……なにかあったんか、紅葉? ちぃさい頃はいつも言うとったやないけ。早く水儀を終えて一心同体になりたい、と」  きょとんと首を傾げた祖母に絶句した。  確かに覚えている。早く水儀を終えたかった。終えて、認められたかったのだ。けれど今は違う。しっかりと理解して、納得して、考えた結果だ。  安心していたのに。儀式を行わなくていいのだと。  水儀はお家に伝わる神降ろしの一つだ。最後に儀式を行ったのは明治時代だと書物には記されている。魂の質が高く、かつ霊力の高い子どもが男児は五歳、女児は七歳になったと同時に行われる――紅葉が行うはずだった儀式。だった、とはそのとおり儀式は行われなかった。  ちょっとしたでは済ますことができない大事件が起こったのだ。屋敷中が騒然とし、躯に一生消えることのない穢れを追ってしまうことになった事件。  その事件のことを覚えていない。さっぱり事件のあった前後の記憶が抜け落ちている。事件によるショックだとかかりつけの医師は語るが、正確には違った。  記憶が封じられている。事件の中心人物でありながら、当時の記憶が全くなく、もしかしたら事件があったことすら覚えていないのかもしれない。 「で、でも、僕の体は穢れに犯されているからって」 「だからそのための禊祓いやろ」  何によって記憶が封じられているのかは誰にもわかっていない。有能な術師が視ても痕跡すら残っていなかったのだからこの先、記憶を封じた術者を探し出すことは不可能だろう。  紅葉の体を侵す穢れは全身を覆い、今も心臓に巣食っている。  水儀の神降ろしは穢れのない清廉潔白で無垢な子どもでなければならない。この世に魂が定着する刹那、神を自身の体に宿し魂と結びつける。人とは離れた存在になる水儀。  数百年ぶりに行われるはずだった水儀は一族中を巻き込む大事件によって幕を閉じた。もちろんなぜ行われなかったのかを紅葉は知らない。一族内では口に出すことを禁じられているために、知ることもない。知りたいとは思うが、知ってはいけないのだとも思う。  矛盾した気持ちは紅葉を苦しめた。  どうやって水儀を回避したかわからないが、ただひたすらに今は安堵していたのだ。普通の生活を送ることができるのだと。あの頃は何かにとり憑かれたかのように儀式儀式と物の一つ覚えで口にしていた。 「っ……」  嫌だ、とたったその一言が言えない。 「紅葉、よう聞き。お前は白乃瀬の大事な大事な宝物なんや。父親を超える、水神様の器に成りうる存在。言ったやろう。遊びに惚けたらあかん。友人なんて生温いものなんか必要あらへん。ひとりで生きてかなきゃならん。信じれるんは自分だけや。常に本心を隠し通し。お前は次期当主で宮司で、水神様の器なんやから――言うことを聞きなさい」  気づいたときには、頷いていた。  次期当主、宮司なんて名ばかりだ。本当の役目は一族の守護。お家のために人生を捧げ、一族のために身を捧げ、全てのために心を捨てる、水の後継者。白乃瀬一族の裏を継ぎし跡取り。  表は留学中の弟が継ぐ。弟が帰ってくるまでが、タイムリミットだ。 「……失礼、しました」  紅葉は一族のための生贄だった。

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