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 すっかり意気消沈してしまった紅葉は物音一つしない室内に閉じこもっていた。思考は暗い方向へと向かっていくばかり。  頼りになるひらりは染髪の準備に行っており、ここにはいない。  幼児期に教え込まれた水儀はたいそう綺麗で美しい印象だった。一族のために全てを捧げ、水神のために己を殺す。今思えば、とんだ自己犠牲だ。  神に仕える一族の中で特に力の強い者が選ばれる艶美な儀式。大国主神とも美浦津姫とも違う水神を奉る儀式は市外にある山のずっとずっと奥に存在する洞窟で行われる。手前には水神を祀る祠があり、その奥に洞窟が真黒い口を開けて待っている。  ひたすらまっすぐの道を歩き、洞窟を抜けた先には湖が広がっているらしい。兄たちから聞いた話だ。透明に澄んだ水色の湖。  湖の底に、水神が眠っている。目覚めの時を今か今かと待ち構えている。  そして水儀で神に触れるのだ。触れて、認められて、そして融合する。 「逃げられないんだろうなあ」  平淡な声音が溶けた。  声なく涙を流す紅葉は諦めた。諦めてしまった。  僕はもう十分生きることができた。本当はとうに尽きている命なのだから。諦めよう。 「紅葉様」  いつの間に戻ってきたのか、染髪料を手にしたひらりがいた。  緩慢な動きで振り返る。  悲哀な面持ちで言葉を紡いだひらりは紅葉の横に膝をついた。十も歳の離れた愛しい主が遠いところへ行ってしまう。手放したくない。  無意識に伸びた腕は簡単に華奢な主を胸の中に閉じ込めた。 「ひらり?」 「紅葉様。私と逃げましょう。あなたは背負っているものが多すぎる。ひとつくらい、投げ出してもよろしいではないですか」 「……僕は」 「わかっております。これは私の我が儘です。このまま、このまま見過ごしたくない。儀式がとても大切なものだということもわかっております。けれど、何も紅葉様でなくてもよろしいじゃありませんか」 「……」 「お願いします紅葉様……私が一生お守りいたします。一緒に、逃げましょう?」  切ない訴えに甘えて全てを投げ出したい。  ひらりに任せて、ひらりを頼って、ひらりに守ってもらって、それでどうにでもなってしまえと。 「――ごめんね、ひらり」  絶望の色に瞳が染まった。  呼んでいるのが聞こえるのだ。  ――おいで  ――おいで  ――此方にお()で  気持ちが落ち着く不思議な声音。脳内に直接語りかけてくる響き。  混濁とする意識の中で声だけがやけにはっきり聞こえてくる。  これが水神なのか。  得体の知れないものの感覚に恐怖した。  体を取り巻くとっぷりとした冷たい水を指で掻くが、指から抜け出ていき藻掻くだけだ。  ――おいで  ――おいで  女とも男ともつかぬ不思議な声。  水神に性別は存在しない。確固たる姿も在りはしない。一族の崇める『水神』とは八百万の総称だ。  全ての『もの』に宿る魂。  白乃瀬の家に生まれなければ、存在すら根っこから否定していただろう。普通の一般家庭に生まれていれば、体験することなどありえないことばかり。  これは確かに、世界のどこかで起こっているのだ。  日常の中にありふれている非日常の一つでしかないこの儀式。  無性に悲しくなった。世界は広いのに、僕の世界は酷く狭っ苦しい。白乃瀬に縛られ、他者の線引きした中でしか生きられない。  ――おいで  ――此方にお出で、白乃瀬の贄よ  不意に声が近くなった。  胸が苦しい。痛くて痛くて仕方がない。  閉じていた目を開ければ、光る何かが見えた。  視界の端に黒髪が映る。  金髪、気に入っていたのにな。

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