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 次の週の月曜日、制服を身につけたは紅葉は学園へ登校していた。  周りから向けられる視線には気づかないふりをして、ゆっくりと足を進める。 「えっ、誰?」 「あの黒髪美人誰!?」  ざわざわと波紋が広がっていき、自分の周りにちょっとした円が出来ているが素知らぬ振りだ。  緩やかに波打つ黒髪はハーフアップに、会計様のトレードマークだった赤ブチメガネは鞄の中でお留守番をしている。モデル顔負けの長い睫毛に、垂れがちな瞳の脇に存在を主張する泣きほくろが色気を醸し出している。  肌の白さも相まって、幸薄そうな美人にしか見えなかった。 「あ――風璃さぁん! おはよーございまーす!」  玄関からさほど遠くない階段を今にも登ろうとしている風紀委員長を見つけ、笑顔一杯で声をかけた紅葉に神原はきょとんとした後、驚愕に目を見開いた。 「紅葉君っ!?」 「一週間ぶりですねぇ」 「え、ちょ、……紅葉君?」 「そうですけどお? どーしたんですかぁ、吃っちゃって?」  恐る恐るといった様子で尋ねた神原に笑みを深める。  よかった、気付いてくれた。にへら、と笑った紅葉に周りが沸いた。 「会計!? ちょ、ま、めっちゃくちゃ美人!!」 「うっわすげぇエロいんだけど!」 「白乃瀬様!? な、なんで黒髪……!!」 「ハッ……! 隊長に連絡を!!」  正しく阿鼻叫喚地獄絵図。  あの黒髪美人は誰だ!? からの会計様!? と混乱が混乱を呼び、奇声だか嬌声だか良く分からない悲鳴が上がり、黒髪になった会計様を近くで見ようと生徒達が詰め寄ってくる。 「っ……風紀室行くよ」  波のように押し寄せる生徒を一瞥した神原は有無を言わさず紅葉の手を取った。言わずもがな、その瞬間悲鳴が大きくなる。  腕を引かれるまま着いていく。前を行く神原はいつもの飄々とした笑みではなく、眉を寄せて難しそうな顔をしていた。  朝のホームルームには間に合わないかもしれない。頭の隅っこで考えていれば、腕を掴む力が強くなった。 「……なんで黒くしたの?」 「うちのばあ様が金パやめなさいーって」 「ふぅん? じゃあ何、好きな人ができたとか、そんなんじゃないんだよネ?」  思いもしない言葉に目を丸くする。  好きな人、と神原から想像のつかない言葉に首を傾げた。 「紅葉君は、思わせぶりだよね」  どことなくトゲトゲした言葉に二の句が継げない。  振り向いてくれない神原に寂しさを感じた。 「思わせぶり、って? どーゆーこと?」 「ほら、その喋り方だって」 「……?」 「甘ったるい、けどサラサラした声。自分に気があるんじゃ、って思わせといて掴みどころのない声。こっちを見つめる瞳は蜂蜜みたいに相手を捉えて離さないのに、いざ捕まえようとすればするりと遠退く。ねぇ、俺がさ、どんだけヤキモキしてるかわかる?」  ギシリ、と掴まれた腕の骨が音を立てる。  切実な叫びだった。頼りになると、頼りにしていた年上の彼がそんなことを思っていたなんて知らなかった。否、感じさせなかったのだろう。  紅葉にはもちろんそんなつもりなかった。思わせぶりな態度だなんて、したつもりない。  場を執り成そうといつもなら適当な言葉がついて出るのに、なんだか胸が苦しくて、喋るどころじゃなかった。フィルター越しの色褪せた視界にはだいぶ慣れた。淡い色の世界にたまに悲しくもなる。神原は、色褪せた世界の向こう側にいた。  割り切ったように見えて、案外割り切れていないものだ。他のモノが思っているほど、紅葉は強くできていない。 「風璃さん……?」 「初めはただのお節介だったのにね。目も離せないくらい大切になっちゃうなんて驚きだ」  角を曲がれば風紀室だというところで足を止めた神原はゆっくりと振り返る。  色素の薄い赤い瞳は不思議に揺らいでいた。 「――好きだよ」  なんてことない、日常会話のように神原は告げた。  色気もムードもなく、つい我慢できずにといった様子で、神原は自嘲的に笑む。 「ぁ、と、僕は、その」  サプライズかドッキリ? そう聞ければよかった。  それにしては神原の瞳は真っ直ぐすぎて、しどろもどろになる。 「いいよ、返事はしなくて。紅葉君が恋愛ごと避けてるの知ってるし」  苦笑混じりに言われ、油のきれたロボットみたいなぎこちない笑顔を浮かべた。頬は引き攣り、見るに堪えない微笑は会計親衛隊が目にしたら発狂ものである。  朝の登校時間で、尚且つ人通りの少ない特別棟でよかったと心底思う。  ――愛なんて知らない、恋なんて碌でもない。  紅葉の両親は恋愛結婚だったと聞いた。聞いた、というのも物心つく頃には母は亡くなっていたし、父は行方不明だ。一族全体を巻き込んだ山あり谷ありの末の大恋愛だったらしい。  正しく純愛。美しいだろう。素晴らしいだろう。たとえ、兄と妹の禁断の愛だとしても。 「返事はしなくていいからさ、ちょっとは俺のこと意識してくれると嬉しいんだけど」  なんて答えたらいいのか、言葉に詰まり不器用な笑顔を浮かべる紅葉に神原は腕を伸ばした。  ジャラリと手首を彩るアクセサリーが音を立て、呆然とする白乃瀬を包み込んだ。 「か、風璃さん?」  ミント系の爽やかなフレグランスの香りが鼻先をつつく。押しのければすぐに解けてしまうくらい弱い力の抱擁は縋るような、優しすぎる神原の気持ちを表しているようだった。 「俺は紅葉君が好きだよ。これだけは忘れないで。覚えていてね」  名残惜しげにギュウッと抱きしめて、神原は足早に立ち去ってしまう。  追いかけようと一歩足を踏み出すが、それ以上進むことはできなかった。追いかけて、なんて言葉をかける?  返事はいらないと言った。 「……」  胸の中にモヤモヤとしたものが広がった。  好きだなんて、この学園に来てから言われ慣れてしまったのに、神原の告白は熱いモノが込められていた。

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