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 体育祭は月白組の大逆転勝利で終わった。  神原がリレーではりきった結果、応援合戦終了時点で三位だった月白組が点数に大差をつけての優勝である。  盛り上がった熱気を残しつつ、生徒たちが退場するのを見送り、運営振り返りは後日ということで役員生徒も早々に解散して寮へと戻ってきていた。  体育祭が終われば、あっという間に冬が訪れる。  明日の夜には親衛隊主催でお疲れ様会がある。もちろん紅葉も招待されており、気が向いたら行こうかな、と考えていた。 「あー……つかれた……」  溜め息交じりの呟きは静寂に溶けて消えた。  汗ばんだ身体が気持悪い。シャワーを浴びてしまおうと、バスルームを覗く。まっくらな浴室は薄暗くて不気味な印象だ。  換気扇を回してシャワーを出す。箪笥から適当に着替えとタオルを準備してさっさと汗を吸って臭いジャージを脱ぎ捨てた。  ――頭からシャワーを浴びて息を吐く。太陽の熱気で火照った身体に、三十度の水は冷たくてとても心地よかった。  視覚と聴覚が水に支配される。  ざあざぁと、蒼い音が鳴って、どくどくと、心臓が高鳴る。白乃瀬の神様と共になってから、水に対して酷く敏感になった。雨音は心に安らぎを与え、水滴は身体を癒してくれる。温度の高い水は皮膚がひりつくようになり、もっぱら冷水を浴びるようになった。  浴室の壁に手を付いて、後頭部を水で打たれながら目を閉じる。  ――このまま、水に溶けてしまいたい。  溶けて、いなくなってしまえば余計なこともなにも考えなくていい。全部放り投げて、身体も、心も、――神原への恋心もなにもかも、水に溶けて消えてしまえばいいのに。  恋がこんなに辛いだなんて知らなかった。誰かを好きになるのは、すごく疲れる。  心身共に、限界が近かった。  気づけば、浴槽に水を溜めて沈んでいた。ごぼり、ごぼり、と。口から気泡が溢れてく。  水中から水面を見上げるのが好きだ。蛍光灯の光がキラキラと反射して、水面に揺らぐ。すぐ目の前に星空があるようで、手を伸ばしてしまう。ぼんやりと、琥珀色を瞬かせながら水面の星を掴もうと伸ばした手を――誰かに掴まれ引き摺り起こされた。 「紅葉君ッ!!」  ざぱ、と大きく波立たせて身体が空気に触れる。どれくらい水の中にいたのか、白い肢体は青白く、唇は真っ青を通り越して白くなっていた。  血相を変えた神原に、ぱちくりと目を瞬かせる。 「かざりさん?」  きょとんと首を傾げて、神原を見る。どうして彼が焦っているのか分からなかった。 「なに、してたの」 「何って……水浴び?」  表情は険しい。肩を掴む力が強い。骨が軋んでしまいそうだ。 「――返事がないから、入ってみたら湯船に沈んで出てこない。すごい、心配した」 「 え、なんで?」 「は?」  地に響く低い声音に背筋がピンと伸びた。  水に沈んで死ぬわけでもないのに。何を慌てて、焦って、心配しているのだろう。 「っこんな、冷えて、」 「ぁ、っ」  頬に添えられた手のひらの熱量に大きく肩を震わせた。冷えた身体に、ヒトの体温は熱すぎた。熱湯を浴びてしまったときのように、皮膚にひりひりと痛みが走る。  ――まるで金魚だ。  怪訝な表情で神原は「こうようくん?」と呟く。 「……日に当たりすぎたみたいで、肌が火照ってたんだよねぇ。日焼けしちゃったみたい」 「長袖着てたよネ?」 「や、長袖だったけど、あんまし、皮膚強くないし、天気もよかったから」  無茶苦茶な言い訳だと自分でも理解している。けれどそれ以外に言い訳が思い浮かばなかった。  肌が弱いは本当。天気が良くて、日が強かったのも本当だ。 「――俺に何か隠してる?」  怜悧な瞳が細められる。剣呑な光を灯し、鋭く紅葉を見据えた。鋭い剣をがんぜんに突きつけられたかのような錯覚に陥る。  ドキ、と。心臟が嫌な音を立てる。  隠していることなんて、たくさんある。ありすぎて、なんて答えたらよいのか分からず言葉に詰まり、喉が変な音を立てた。 「か、んばらさんだって、ヒトに言えないことのひとつやふたつ、あるでしょ?」  これ以上、心に入ってこないで。これ以上、心を揺さぶらないで。にっこりと、笑みを浮かべて、線引きをする。明確な壁を作る。  水に浸かる身体は指先から冷えて、青白い。 「ねぇ、僕、風璃さんのことが好きだよ」 「ぇ、」  目を見開き、驚きを露わにする彼に充足感が芽生える。 「風璃さんのことが好き。好きで好きでたまらないよ。指を絡めて笑い合いたい。声を潜めて囁めきたい。頬を撫ぜて、口を合わせて、愛し合いたい。――でも、できない」 「……それは、紅葉君が隠していることに関係している?」 「そう。ねぇ、神原さん。好きだから。だからこそ、一緒にはいられないんですよ」 「好き同士なら、一緒にいられるだろ」 「ううん。違うんです」  疲れたように、長く息を吐き出しながら首を振った。  好きだから一緒。そんな簡単なことじゃあない。好きだからこそいられない。  心臓が痛い。ヂクヂクと抱えた毒が身体を苛む。水の中にいないと、息ができないときだってある。  そんな状況なのに好きなヒトと一緒になんてなれるわけないじゃないか。どうしたって、哀しい結末しか生まれない。  水の中はとても冷たくて、静かで、心地よい。ゆっくりと呼吸ができて、息苦しい陸地とは大違いだ。そのうち、水の中でしか息ができなくなるのではないかと、不安になる。童話の人魚姫は最期、泡になって海に溶けた。母は、水に解けていなくなってしまった。自身もきっとそのあとを追うのだろう。漠然としていながらも、確定された将来に躰は寂しさを訴えた。  水面のようにゆらゆらと心がさざめいて、それは時折雨嵐のように荒れ狂う。 「っくしゅ」ずび、と鼻をすすった。 「あ……先に上がろう、体がすごい冷えてる。上がって、あったまって、それからゆっくり話を、」 「話なんてないですよ。僕が風邪を引いたらそれは自業自得だし、神原さんがっ気にすることでもないです」  肩を掴んでいた手を、優しく引き離す。あからさまな拒絶に、神原は信じられないと首を横に振った。 「ごめんなさい、神原さん」  王子様は幸せにならないと。  それが、紅葉の応えだった。

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