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 セミの鳴き声が耳につく。  我儘を言って、夏休みのはじめ一週間だけを神原の家で過ごす許可を貰った。  秋夜には苦い顔をされたが、大祖母様が「良し」と言ったのだ。秋夜には何も言えなかった。  一週間分の荷物を詰め込んだキャリーバックを転がしながら、携帯のメッセージに送られてきた神原の家の住所を頼りに見慣れない町を歩いていた。  静かな街並みだ。学園の喧騒とはかけ離れた長閑な風景に心は自然と落ち着いて行った。 「えぇ、ここ……?」  ドン、と立派な門構え。かけられた表札には、『神原家』としっかり書かれている。  しかし「ごめんください」と入るには躊躇してしまう立派さだ。遠目に覗いた内側には、門構えに相応しい純和風の屋敷と庭が広がっていた。  着いたら連絡してね、と言われるままに二十分ほど前にメッセージを送っているのだが、未だ返事は来ない。  先程から玄関先で箒をはいているサングラスの男性がちらちらとこちらに視線を投げてくるのも居心地が悪い。確かに、二十分も家の前をうろうろしていたら「何だ?」と思うだろう。  声をかけられる前に、一度離れよう。来る途中に喫茶店があったのを思い出し、踵を返した紅葉の目と鼻の先。 「うちに何か御用ですかい、坊ちゃん」  エプロン姿の厳つい男性がこちらを睨みつけていた。 「え、ぁ、あー……」 「アン?」 「あの……神原さんのお家って、ここですよね?」  下から伺う。知らず知らずに上目遣いになった。  透けるように生白い肌。とろりと甘さを含んだ蜂蜜の瞳。しっとりと艶やかな黒髪。うっすら汗を滲ませた額。ごくり、と男は唾を飲んだ。 「こーら、紅葉君」  目元を、大きな手のひらが隠す。  少しばかりの汗のにおいと、さっぱりとした柑橘系の香り。 「わ、若……!」 「この子、俺のお客さんだから。――のめんね、紅葉君。迎えに来るの遅くなっちゃった。熱いから、中行こうか」  さりげなく荷物を持った神原に手を引かれて、厳かな門を潜る。  久しぶりに見た神原は、髪が短くなっていた。あ、赤メッシュもなくなってる。  黒い半袖シャツに、グレーのパンツ。制服を着崩してジャラジャラつけていたアクセサリーは見当たらない。シンプルだが似合っている。 「若! おかえりなせぇ!」 「おかえりなさい!」  野太く雄々しい声は学園じゃ中々聞かない。ちらりと横目に見た男性たちは、家事手伝いにしては体が出来上がっている。  若、ってやっぱりそういうことだよねぇ。胸中で呟く。 『神原風璃は極道の跡取り』  まことしやかに囁かれていた噂は本当だったわけだ。

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