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022
神原とはじめて出会ったのは一年前の、入学式前日のことだ。
右も左もわからない状態で学園内を彷徨い歩いていた紅葉は、容姿はもちろん私服ということもあり目立っていた。
注目されるのはあまり得意ではない紅葉は知らず知らずと視線から逃れたいがために歩いているうちに人気のない特別校舎近くまでやってきてしまった。すぐに見知らぬ光景だと気付いて引き返そうにも、すっかり迷子になってしまっていた。そんな時、通りかかった教室からヌッ、と出てきた手に捕まり、無理やり引きずり込まれてしまう。
こんなこと今までなかったし、発達途中の細い手足では抵抗らしい抵抗もままならない。そうしているうちに手が、足が拘束され、引きずり込んだ相手の顔も見ぬ間に目隠しをされた。
床に転がされ恐怖と混乱にパニックに陥る紅葉の耳に届いたのは下卑た笑い声。他にも何か言っていたきがするけれど、脳が思い出すことを拒否している。思い出してもたいした恐怖は抱かないが、紅葉の中にはしっかりトラウマのひとつとして植え付けられていた。
何をされるのかは容易に想像がついた。
衣服を着た上から愛撫され、隙間から入ってくる手が気持ち悪くて仕方がない。
快感よりも恐怖が勝り、逃げようともがけば暴力を振るわれ、このまま犯されてしまうのだと思えば目隠しされている布が湿った。
(もうダメだ―――)
諦めた紅葉は暗い意識の淵に立ち、その行為が終わるのを淡々と待った。
ズボンのベルトに手をかけられ、唇を噛み締めて羞恥に堪えるが、ベルトが外されることはいつまで経ってもなかった。
ゆるりと頬を撫でられる感覚に身を竦めるが、それ以上どうこうしようという気は感じられない。
「もう、大丈夫だよ」
柔らかい声音に思わず体の力を抜けば、目を隠していた布が取り払われた。
「遅くなってごめんね」
真っ白い髪に、赤い瞳が印象的だった。
わけもわからずボロボロと涙をこぼしていることにも気づかない紅葉を、神原は困った笑い顔でゆっくりと抱きしめてくれた。
初対面なのになんでこんなに優しいんだろう、とか。なんで抱きしめられてるんだろう、とか。いろいろと思ったけれど、抱きしめられた瞬間にした石鹸の香りに心が落ち着いて、全てがどうでも良くなったのだ。
「遅くなってごめんね、白ちゃん」
――そうしてゆるりと頬を撫でた神原が、はじめて出会ったときと重なった。
食堂の二階席へ向かう階段を手を引かれながら歩いている。遠く近い過去を思い出し、意識を飛ばしていた紅葉の瞳に神原が映る。
「え、あ……」
「ん? どうかした?」
「か、んばらさんは、なんで僕を助けてくれるの?」
「なんでって――」
驚いたように目を見開き、逡巡して「なんでだろうね?」と首を傾げた。
一階席は妙なざわつきを残しながら、水嶋が何とかしてくれるだろうと人任せに、がらんとしている二階席の一角を陣取る。
「何食べる? 買ってくるよ」
「……じゃあ、冷やしうどん。あ、お金」
「いいよいいよ。こんぐらい奢ったげる。ちょっと待っててね」
さっさと紅葉を置いて注文をしに行ってしまった神原に、行き場を失い宙をさまよう手を見つめた。
ずっと握りしめられていた手には熱が残り、そういえば誰かと手を繋ぐなんて久しぶりだと思い出した。
「……なんで」
――なんで、優しいんだろう?
出会った時から神原はどこまでも優しかった。どこまでも親切で、優しくて、兄のような存在だった。
すぐそばにある触れる優しくむず痒いそれにドクドクと心臓が波打って、感じたことのない感情には慣れず居心地の悪さを紅葉に与える。
「……はぁあー……やるせへんなぁ」
ついと口を出てしまった故郷の方言に溜め息をついた。
いまだがらんとした二階席は静かすぎるくらいで、考えなくてもいいことまで紅葉に考えさせる。
どうしたらいいのかわからないのだ。神原が優しくしてくれるたびに、胸のうちに広がる暖かくて心地いい思いを。
「深刻そうな顔だね」
いつの間にか戻ってきていた神原に目を丸くして、苦笑を浮かべて取り繕う。
「あ……いや、別に」
「別にって顔じゃないな。苦しくて苦しくて仕方ない、そんな顔だよ。昼飯、すぐにくるってさ」
「そ、ですかぁ」
へにゃっと、ごまかすように笑えば同じようにへにゃっと笑った神原。
紅葉のようにごまかすものとも、裏があるようなものとも違う。気の抜けるような笑顔に、変に身構えていた紅葉は毒素を抜かれてしまい小さく息をこぼした。
何を考えているともわからない。なにがしたいのかもわからない。
神原風璃という先輩は酷く優しく、そして不気味で、そのそばは心地よかった。
これまで身近にはいなかったタイプの人間にどう接したらいいのか、いまだ考えあぐねている。
「お待たせしました。冷やしうどんと、パスタのセットです」
「パスタ俺ー。どうもー」
「ありがとーございます」
「ごゆっくりどうぞ」
料理を運んできた給仕の登場により、なんだか考えていたことが霧散して、有耶無耶になってしまった気がする。
「白ちゃん、それで足りるの?」
「足りますよぉ。ちょっと多いくらい?」
「足りないと思うけどな。白ちゃんはもっと肉食べて太ったほうがいいよ」
「なにそれぇ。僕ってば脱いだら実はマッチョなんですよぉ」
「嘘だね。白ちゃんはがりっがりでしょ」
よく、見ている人だ。
夏だろうが冬だろうが年がら年中ワイシャツにカーディガンの紅葉は一見しっかりしたガタイにも見えるが、それは中に着込んでいるからであって、脱いでみれば細くてぺらい痩せ型だ。
筋肉とは程遠い縁で、マッチョが羨ましい。肉も好んで食べようとせず、偏食の気もあるせいで栄養も偏り、肉どころか筋肉もつかないのだ。
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