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第30話 田部へのフォロー?
そして次の日の朝。
一季は、ゆっくりと目を開いた。
「……あれ?」
泉水がいない。
明け方前にふと目を覚ました時は、すぐ隣ですうすう寝息を立てていたような気がするのだが、あれは寝ぼけ眼が見せた幻だったのだったのだろうか。
泉水の手によって絶頂まで高められたあの素晴らしい体験も、ひょっとして夢だったのか……? と、考えつつ、もぞもぞと身体を起こすと、洗面所の方からかすかな水音がしていることに気がついた。一季がぼんやりバスルームに続くドアのほうを眺めていると、ひょいとそこから泉水が姿を現す。
「あ、おはようございます。すんません、顔洗わせてもろてました」
「あ、どうぞどうぞ……。おはようございます」
泉水はにこっと爽やかな笑みを見せると、ベッドの方へと歩み寄って来た。見ると、泉水はまるでサイズの合っていないピチピチのTシャツとジャージといった格好である。
そういえば昨晩、シャワーのあと、泉水に貸したような気がする。目が覚めてゆくにつれ、昨日の記憶が蘇り、一季は泉水の立ち姿を呆然と見上げた。
「……あ」
――夢じゃない。僕、泉水さんにイかせてもらったんだ。……うわ、どういう顔をしてたらいいんだろう……。
あのあと、ふたりは順番にシャワーを浴びた。一緒に浴びたいと思ったけれど何となく言い出せず、バスルームから泉水が出て来るのを待っていたのだ。その間、泉水が履けそうなパンツやズボンを選んだりしていたのである。
そして一季の作った夕飯を食べ、何をするでもなく、ただただひっつき合って眠った昨夜であった。
前回は緊張のあまり一睡もできなかったと言っていた泉水だが、今回はちゃんと眠れたようだ。顔色もいいし、表情もすっきりしている。
――一緒に眠れたってことか。う、うわ……なんかすごく、普通の恋人みたいな感じがする……。
一季がひとりで照れていると、泉水が心配そうに一季の顔を覗き込んできた。
「い、いい……い、一季くん、具合悪いん? 寝不足とか……?」
「い、いえ……。い、泉水さんは、よく眠れました?」
「あぁ、はい、昨日はぐっすり」
名前呼びにはまだ慣れていないらしく、一季の名を呼ぶだけで泉水は真っ赤になっている。しかしその表情は清々しく爽やかで、笑顔がキラキラキラ〜ンと光り輝いて見える。その笑顔は直視することが困難なほどに眩しくて、一季は真っ赤になって俯いてしまった。
はたから見れば、『ちょっと手コキでイかせてもらっただけなのに喜びすぎだろ』と鼻で笑われてしまいそうなものだが、これまで不感症に悩まされ、虚しいあがきを繰り返していた一季にとって、これはものすごい前進だった。
素直に好きだと思える相手と心を通わせ、肌を触れ合わせ、ともに高め合う……それが、こんなにも幸福なものなのかと、一季はしみじみ実感していた。
――な、何だこれ照れる……。恋人ってこんな感じなのかな。ううっ……幸せすぎる……。幸せすぎてどういう顔をしていたらいいのか……。
一季はとろとろととろけて緩んでゆきそうになる顔を必死で引き締め、あえてハリのある声でこう言った。
「あっ、朝ごはん食べませんか!? パンと卵くらいならあるんで、なんか作ります!」
「あ、すんません。いつもいつも……。今度うちに来てもらった時は、俺が作りますんで」
そう言って恐縮している泉水の姿を見ているだけで、どきどきどきと胸が高鳴る。どうしたことだろうか。これまで以上に泉水のことが格好良く見えるのだ。
一季を絶頂まで追い詰めたときの泉水の表情をふと思い出してしまえば、ずくんと身体が疼いてしまう。普段のウブな表情とは打って変わって、泉水はとてもセクシーで、雄々しい表情を浮かべていた。何気なくシーツの上に置かれているこの指の長い手で、一季のペニスを猛々しく……。
――う、嘘だろ。どうしよう……思い出すだけで勃っちゃいそう……。
これまでにない身体の反応に、一季はひどく戸惑ってしまった。昨日感じた素晴らしく甘い快感を、身体はしっかりと覚えているらしい。
快楽を与えてくれた泉水の姿を見るや、再びそれを与えて欲しいと身体が騒ぐ。もっともっと、いろんなところに触れて欲しい、もっと奥まで触れて欲しい……と後孔がひくついてしまう始末だ。
そして、昨夜の夕飯の出来をにこやかに褒めている泉水の唇を見ているだけで、キスがしたくてしたくてたまらなくなり、唇までむず痒くなってしまう。
――これまではこんなこと、一回もなかったのになぁ。恋人がいる人たちって、いっつもこんな気分で過ごしてんのかな……。こんなにムラムラしちゃうのに、普通に社会生活送ってるってことだよな。凄い……凄まじい精神力と自制心だ……。
と、陶然と泉水を見つめていると、少し怪訝な顔をされてしまった。
「しま…………やなくて、い、い、一季くん? どないしたんですか?」
「……へっ!? い、いえ……何でもないです!! こ、コーヒー淹れますね! あんまりのんびりする時間ないかもですけど……」
「あ、ほんまや。俺、着替えも取ってこな」
「じゃ、じゃあその間に朝ごはん作っとくんで、また戻って来てもらえますか?」
「な、なんかすんません。至れり尽くせりにしてもろて……」
「いえいえ、そんな」
今日は平日だ。仕事がある。
現実を思い出すと、ようやく惚けていた意識がしゃんとしてくるような気がした。
だが、泉水とは職場も同じだ。平常心で仕事ができるかどうか、ものすごく不安である。
――でも、なんか……う、うきうきする。なんだこれ、心が浮ついている……ふぁあ、なんか、変なの。
つんつるてんの格好で部屋を出て行く泉水の背中を見送ったあと、一季はへろへろと緩みっぱなしの頬をバシバシと叩いた。
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泉水とはいい雰囲気になれたものの、職場に来てようやく、もう一つの心配事を思い出した。
昨日の修羅場を見聞きしたであろう、田部のことである。
「……田部くん、今日のお昼、ちょっと時間いいかな」
「あっ……あっ、はい……。いっすよ」
一季に声をかけられ、田部は明らかに挙動不審な反応を見せている。朝から一切一季とは目を合わせないし、態度もものすごくよそよそしいため、仕事がしづらくて仕方がなかった。
気持ち悪いと思われている、ということはもはや明確だ。だが、このまま田部のことを放置しておきたくはない。田部は泉水にも懐いていたし、一季にとっても大切な後輩なのだから。
そして一季は、大学の外にある小洒落たカフェに、田部を連れて来た。英誠大で働き始めたばかりの頃、当時の教務課長に連れて来てもらったことがあった場所だ。その課長は次の年に退職したため、それ以降来ることはなかった店だが、広々とした店内は適度に人々のざわめきに満ちていて、込み入った話をするにはちょうどいい雰囲気である。
「あのさ……田部くん」
各々ランチを注文したあと、なるべく重々しい口調にならないよう心がけながら、はす向かいに座る田部の顔を覗き込んだ。田部はせわしなく瞬きをしながらグラスの水を飲み、「う、ういっす」と返事をしている。
「あの……このあいだの話、どこから聞いてたのかな」
「話って……あの、ことっすか。嵐山先生と嶋崎さんが昔デキてて、今は塔真先生と嶋崎さんがデキてて……」
「……なるほど。ほとんど聞いてたんだね……」
その要点を理解しているということは、田部はあの時の会話をほぼほぼ丸ごと聞いていたということになるのではないか。
ドアを開け放っていたことや、場の空気が悪すぎて、田部の気配に全く気づかなかった自分自身の迂闊さに腹が立つ。一季ははぁ、とため息をつき、どこからどう説明しようかと考えあぐねていた。
すると田部もまた、重苦しいため息をつきながらこう言った。
「嶋崎さんて、そっちの人だったんすね。……何つーか俺、全然気づかなくって……」
「あ、あ……まぁ、隠してたしね。やっぱさ、理解が広がりつつあるとはいえ、まだまだマイノリティだし……」
「そっすよね。……ていうか俺、マジで申し訳なかったっていうか……」
「え? なんのこと? あの、別に田部くんが気を遣わなくていいんだよ?」
「いやいやいや……なんつーかその……嶋崎さんの気持ち、全然俺、気づいてなかったつーか」
「?」
田部が何に気を遣っているのか分かりかね、一季が首を捻っていると、田部はそこそこに整ったチャラい顔をキリッと引き締めたかと思うと、やおらテーブルの上に置かれた一季の手を、ぎゅっと握った。
一季が仰天していると、田部は真摯な表情でこんなことを言い出した。
「嶋崎さん……嶋崎さんて、俺のこと好きだったんじゃないっすか? でも俺が全然、嶋崎さんの気持ちに気づかなかったから、ヤケになって嵐山先生とか塔真先生とかと……」
「……はい?」
――どうしよう、田部くんが何を言っているのか全くわからない……。
一季の戸惑いをよそに、田部は罪を悔いるような表情で、絞り出すように話し続けた。
「昨日の会話聞いてから、ずっと考えてたんすよ……。思い返すと、俺と初めて会った時、嶋崎さんすっげよそよそしかったじゃないっすか。それって、突然俺みたいなイケメンが異動してきたから、動揺してたんだなぁとか……」
「……いやあれは……すごいチャラいのが来たなと思って、引いてただけで……」
「そのあとも嶋崎さん、俺にすっげ優しくしてくれてたっしょ? あん時もう、嶋崎さん俺に惚れてたんすよね……? だから俺が何回も合コン誘っても来なかったんすよね……そりゃそっすよね……俺が他の女の子たちとキャッキャウフフしてんの、間近で見せつけられるとかつらすぎっすよね……」
「……いやそれは、単に女性に興味がなかっただけっていうか。ただ単にめんどくさかっただけっていうか……」
「でもだからって……!! 嵐山先生はないっしょ……!? 塔真先生はカッケーし優しいから分かるけど、嵐山先生はないっしょ……!! すんません、俺がニブいせいで、あんなクソ嫌味なマッチョ野郎に、嶋崎さんの処女を……っ!!」
「ちょっと、ちょっと待って!! 一旦落ち着こう? 田部くんの言ってること全部違うから!」
一季は手を振りほどき、思考が暴走中の田部をどうどうと宥めた。田部はきょとんとした顔をして、意味が分からないといったふうに目を瞬いている。
「……ええと、まずは。僕、田部くんをいいなと思ったこと一度もないから、安心してくれるかな」
「…………えっ…………? えっ? そうなんすか……?」
田部が、分かりやすく傷ついた顔をしている。
フォローせねばと思ったが、まずは状況を整理しようと、一季は話を先に進めた。
「ね、そこは安心して? それに、僕はヤケになって嵐山先生に処女を捧げたわけでもないから、それも安心して」
「………………えっ…………? ってことは……し、し、嶋崎さん…………そっちの人でも、さらにそっちの人ってこと……っすか?」
「……ん? どういう意味?」
田部はわなわなと唇を震わせながら、またさらに忙しなく瞬きをした。一季が首をかしげると、田部は畏怖と高揚が入り混じったような声色で、こんなことを言い出した。
「あ、あのガチムチを…………その細っこい身体で…………? う、うわ、マジか…………嶋崎さん、パネェ…………マジ男の中の男だわ……」
「……あ、あのさ……何を誤解してるのか大体は分かってるんだけど……」
「すげぇマジ……俺、嵐山先生って、ガタイ良すぎだし顔こええから、ちょっと苦手だったんすけど…………嶋崎さん、いや、マジパネェっす。マジ俺、一生ついて行くっす……!!」
「……そう、ありがとう」
どうやら、田部は一季が嵐山を掘っているのだと勘違いしているようだ。訂正しようかとも思ったが、ちょうどそのタイミングでランチプレートがテーブルに運ばれてきたため、一季はそっと口を閉ざした。
そしてブツブツと、「…………え? ってことは、塔真先生も…………? う、うわ、マジやべぇ…………すげぇ嶋崎さん、こんな美人なのに漢 すぎてマジギャップ萌えだわ……パネェ…………」と勘違いを上塗りし続けている田部の隣で、一季はカリッと焼けたチキンソテーにナイフを入れた。
ジューシーで美味しかった。
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