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第31話 公私混同はいけません

   その日の午後、一季は泉水の研究室を訪れていた。ドアをノックしてみると、入室を許可する声が聞こえてくる。 「い、一季く…………やなくて、嶋崎さん!? ど、どないしはったんですか!?」  突如研究室に現れた一季の姿に、泉水が目をまん丸にしている。  デスクに向かい、白衣姿でパソコンと向かい合っている泉水は、見慣れない黒縁メガネを装着していた。その姿はあまりに知的で、あまりにも恰好が良くて、一季はドアを開けた姿勢のまま、しばし泉水の姿に見惚れてしまう。 「あ、あの、どうぞどうぞ!! むさ苦しいところですが……!!」 「あっ……! 失礼しました、お邪魔します」  泉水に会うためだけにここへ来たわけではない。れっきとした用事がある。五月下旬から始まる工学部二年生らの実習名簿が未提出であるため、それを受け取りに来たのだ。  静かにドアを閉め、一季はおずおずと研究室の中へ進んだ。いつぞや修羅場を繰り広げた時よりも、部屋の中は雑多に散らかっているように見える。デスクの上には書類があっちこっちに重なっていて、ゼミ用に置かれた長机の上には、学会誌などが積み重ねられていたりと、とっ散らかった雰囲気だ。 「こ、こんなところにわざわざ……どないしはったんですか?」 「え、ええと。工学部二年生の実習生名簿を、まだいただいていないようで、それを受け取りにきたんですけど……」 「実習名簿? ついさっきメールで送ったんやけど……入れ違いかな」 「えっ!? あ、す、すみません……!!」  というか、名簿が欲しければ、電話で催促をしてメールで受け取れば済む話なのだ。わざわざ職員が研究室まで押しかけて督促せねばならぬほどの重要機密書類というわけではない。  そう、泉水の顔見たさに、一季はわざわざここへきてしまったのだ。公私混同も甚だしい。いい年をしてこんなことをしでかしている自分を心底恥ずかしく思いながら、一季は「すぐ、確認しますので」と言いながら、きちきちと会釈をして研究室を出て行こうとした。 「ひょっとして……俺に会いにきてくれはったんですか?」 「…………う」  図星をつかれ、一季はぴたりと動きを止めた。顔を上げると、ほんのりと頬を染めた泉水が、じっと一季を見つめている。その眼差しに、じわりと身体が熱くなった。 「……すみません。……それも、あります」 「えっ、ほんまに……? う、うそぉ……」 「あ、ご、ごめんなさい!! ウザいですよね!! 引きますよね!! 先生だってお忙しいのに、僕みたいな事務員がホイホイ訪ねてきたりしてたらご迷惑ですよね!! す、すぐ退散……」 「い、いやいやいや!! そんなわけないじゃないですか!」  大慌てで部屋を出て行こうとする一季を引き止めに、泉水がデスクの向こうから飛んでくる。がしっと手首を掴まれて、一季はかぁぁぁと顔を赤くした。 「実は俺も……なんか用事作って、教務課行こうかなとか、思ってたんです」 「えっ、いえ、あの、気を遣ってくださらなくても大丈夫ですよ!? 僕、馬鹿みたいに浮かれて……」 「いえいえ、ほんまですっ。でも、いい言い訳思いつかへんから、夜まで我慢せなあかんかなぁって思ってたとこなんで、きてくれてめっちゃ嬉しい」 「……先生」  優しい泉水の言葉にときめきながら、一季はそっと後ろを振り返った。見上げると、メガネをかけた泉水と間近に目が合い、さらに顔が熱くなってしまう。照れを誤魔化すように、一季は早口にこう訪ねた。 「せ、先生って、目、悪かったんですか?」 「ああ、これ。度は入ってないんです。結構疲れ目ひどいんで、ブルーライトカットメガネ使(つこ)てるんですわ」 「あ、そうなんだ……。とてもお似合いです」 「ほ、ほんまですか?」 「はい、知的で、すごくかっこいいですよ」 「…………ふぐぅ」  一季が素直にそう褒めると、泉水は両手で顔を覆って俯いてしまった。一季は驚いて泉水の腕に手を添え、「あ、あの、僕変なこと言いましたか?」と尋ねた。 「い、いや……一季くんに褒められると、なんや……腹の奥がもぞもぞ〜ってなるっていうか……」 「もぞもぞ……」 「て、照れてまうんですわ。嬉しすぎて」 「先生……」  頬を赤らめながらにっこりと笑う泉水を見上げていると、ついついぽやんとなってしまう。  ――本当に、泉水さんはなんて素敵なんだろう……。あぁ……どうしよう、またムラムラしてきちゃった……。  白衣のポケットに手を入れて、メガネ姿で微笑む泉水の麗しさときたらたまらない。このまま研究室の中で淫らな行為に及んでしまいたいという欲求が、むくむくと沸き上がってきてしまう。  デスクの上で脚を開かされ、エッチなことをされてみたい……または、デスクの後ろにある窓に押し付けられ、人目を憚りながらいやらしいことをされてみたい……一季は逸る欲望をなんとか宥めようと、深呼吸を繰り返した。  そもそも、うぶな泉水がそんなことをするはずがないではないか。おかしな妄想に走ってしまった自分を恥じ入りながら、一季はぎこちなく微笑んだ。  すると泉水はごくりと息を飲んで真顔になると、一季の肩に手を置いた。 「あ、あの……いいですか?」 「……えっ」 「ちょっとだけ、あの……」  泉水の眼差しに、どことなくセクシャルな雰囲気を感じ取った一季の心臓が、途端にばくばくと早鐘を打ち始める。まさかつい先ほど妄想したばかりの事柄が現実になるのではないかと……。  ――えっ? えっ? なに!? ま、まさか、まさかこんなところで、本当にエッチなことを……!?   白衣+眼鏡の知的泉水といやらしいことをする……それは一季の助平心を存分にくすぐるシチュエーションである。しかもこんな、いつ誰がくるとも分からない、神聖なる学び舎で……。  ドキドキしながら泉水の誘いを待っていると、泉水はごくりとまた喉を鳴らして、こう言った。 「ちょっとだけ……は、ぎゅってしてもいいですか……!?」 「えっ? あ、ぎゅ…………?」  そう、泉水は純な男なのだ。ピュアであり、真面目な男である。  ――なんてことだ……僕はなんて汚れてるんだ……!! 泉水さんに『セックスはなしで』とか言ってたくせに、昨日ちょっと気持ちよくしてもらえたからって調子に乗って、エロい妄想押し付けようとしたりして……!! とんだスケベ男だな僕は!! 汚らわしい!!  一季は心の中で己をビシバシ平手打ちしながら、ひたむきな眼差しでこちらを見つめる泉水に微笑みかけた。そして、自分からそっと身を寄せ、泉水の白衣に顔を埋める。  すると、泉水の腕が持ち上がり、ふるふるとかすかに震えながら、一季の背中にふわりと回った。 「……はぁ……」  ぎゅ、と一季を抱きしめる泉水の口から、感極まったようなため息が漏れる。一季はそっと白衣の背中に手を回し、深く泉水の匂いを吸い込んだ。  泉水の体温と混ざり合い、ふんわり優しく香る柔軟剤の香り。泉水の腕の中にいるだけで、なぜだかとても満たされる。いやらしい妄想に囚われかけていたのが嘘のように、ただただぬくもりが心地よかった。 「……先生」 「は、はい……?」 「癒されます……先生に、こうしてもらうと」 「えっ、ほ、ほんますか? ていうか、先生呼びめっちゃ萌え…………」 「ふふっ」  一季は笑って、泉水を見上げた。  するとすぐそこに、形のいい泉水の唇がある。昨日何度も交わした泉水とのキスの味を思い出し、一季は性懲りも無く、淫らな気分になってきた。  ――キスしたい……。仕事中だし、こんなところでだけど……ちょっとだけ、ちょっとでいいから……。 「あの、嶋崎さん……。よかったら、今夜も一緒に飯、食いませんか」 「…………えっ? あ、はい、ぜひ!」 「そ、それまで俺も我慢しますから。……あの、そんな色っぽい顔、せんといてください……。あの、鼻血出そうなんで……」 「い、いろっぽい顔……? あっ、す、すみません!! スケベな顔してますよねごめんなさい!! ……なんか、つい、昨日のこと思い出すと、浮かれてしまって……!」  一季は大慌てで泉水から離れ、いやらしく緩んでいるであろう顔をバシバシと叩いて引き締めた。すぐそばで泉水もまたわざとらしく、ずれてもいないメガネを直したり乱れてもいない白衣を正したりしている。 「浮かれてくれてはるとか……めっちゃ嬉しいです」 「そ、そう言っていただけるとありがたいですけど……。あはは〜仕事中にほんと何やってんだっていう……」 「ちょっとくらい、いいじゃないですか。……ほんまは俺かて、もっと……」  一季がうなじを掻いていると、泉水がごくりと喉を鳴らす音が聞こえて来た。  泉水は熱っぽい目線でひたと一季を見つめながらもう一度腕を伸ばし、一季の肩に手を触れる。予感を孕んだその眼差しに、一季はドキドキと胸を高鳴らせた。  ――まさか本当に、き、キスしてくれるのかな……? 泉水さんから……!? うわぁぁぁ、どうしよう……!  泉水がやや身体を屈め、一季との距離が近づきかけた。導かれるように軽く顎を上げ、目を閉じようとしたその瞬間。  コンコンコンコンとドアがノックされる音が研究室に響く。  二人は仰天して、サッと身体を離した。 「失礼しま〜す! 塔真先生、渡瀬ですけど……って、あれ?」  断りもなくドアを開け、部屋の中を覗き込んで来たのは、一季の後輩・渡瀬里斗であった。  一季が中にいることに驚く様子もなく、里斗は意味ありげな目つきで二人を見比べた。そのあと、きゅるんとした愛らしい表情に豹変し、泉水の方へすたすたと歩み寄っていく。渋面の泉水は、警戒心を剥き出しだ。 「先生、今お時間いいですか?」 「よくない。というか、入室を許可した覚えもないねんけど」 「冷たいなぁ……ゾクゾクしちゃう」 「ぞくぞく?」 「ねぇ先生? 僕、悩みがあるんです。お話聞いてもらえませんか?」 「俺は君の指導教官じゃない。そういうことは坪田先生に言うてくれ」 「ちょ、先生。そんなに邪険にしなくってもいいじゃないですか」 「あ、あの」  べたべたと泉水に絡む里斗を見かねて、一季は二人の間に割って入った。そしてやや目線を下げて里斗を見下ろしつつ、冷静な口調を心がけながらこう言った。 「悩みがあるなら教務課へどうぞ。学生相談センターを紹介するよ」 「……はい?」  里斗は、じろりと上目遣いに一季を睨みつけ、ふんと小さく鼻を鳴らした。とにかく顔立ちは美しいので、ついつい怯んでしまいそうになるが、一季は社会人としての節度を守りつつ、にっこりと営業スマイルを浮かべた。 「先生はこれから講義です。僕が案内しますよ」 「ちょ、僕は先生に話を……」 「ほら、行くよ。では先生、メールの方、確認させていただきますね。お騒がせしました」 「い、いいえ……」  反抗的なふくれっ面をしている里斗の腕を掴んで、一季は泉水の研究室を後にした。

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