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第32話 里斗のトゲ

   里斗を研究室から引っ張り出し、そのまま手首を掴んで廊下を歩いた。ここで手を離すと、素早く身を翻して泉水の元まで戻って行ってしまいそうな気がしたからだ。  里斗はしばらくされるがままに引きずられていたが、A棟のエレベーターホールで急に足を止めた。手首を掴んでいた一季もまた、つんのめるように足が止まる。 「もう、何なんですか先輩」 「……いや、別に……学生相談部に連れて行こうと」 「ていうか、先輩と塔真先生って、研究室でいっつもエロいことしてるんですか? そりゃシチュ的に燃えるのは分かりますけど」 「し、してないよ! 何も!!」 「嘘ばっかり。あーあ、踏み込むの、もうちょっと後にすればよかったかなぁ」 「えっ」  里斗の台詞に驚いて、一季はばっと振り返った。里斗は手首を掴まれたまま、小首を傾げて妖艶に微笑む。 「き、聞き耳とか、立ててたわけ……?」 「聞き耳ってほどじゃないですよ? 先生いるかな〜と思ってノックしようとしたら、人の声が聞こえた気がして、様子を窺っていただけです」 「……」  里斗の行動を非難したくもなったが、そもそも、研究室という場でいやらしい妄想を滾らせていた自分のほうが悪いのだろう……と思うと、それ以上は何も言えなかった。一季が沈黙していると、里斗は不意に一歩距離を詰め、大きな目で挑みかかるように一季を見上げた。 「ところで先輩。そろそろゴールデンウィークですね」 「……え? そ、それが何?」 「先輩たちの学年、今年同窓会ありますよね。行かないんですか?」 「あ……ああ、あれ」  一季らの学年は四クラスで、150人ほどの生徒が在籍していた。当時、一季らの学年が世話になった学年主任の女性教諭が昨年度で定年退職したため、その労いと新たな人生を祝すべく、連休中に大きな集まりが催されることになっているのだ。  年末に届いていた出欠確認のハガキは、まだ提出していない。幹事の中に陸上部の友人がいて、ぜひ参加するようにと誘われているのだが、まだはっきりした返事をしていないのが現状である。  行きたい気持ちはある。陸上部仲間には久々に会いたいし、クラスメイトの顔も懐かしい。だが、学年全体が集まる場となると、絶対に会いたくない相手が参加するかもしれない……。  そう、小篠卓哉にだけは、会いたくない。  だが彼は、学年の中心にいたモテ男である。こういう華やかな集まりにやってこないはずがない。そうなると、自然と一季の気持ちは不参加の方へと流れていってしまうのである。 「……」  つい黙り込んでいると、大人しくしていた里斗が、突然荒々しく一季の手を振りほどいた。その手首は細い割に力強く、一季は思わずはっとさせられた。 「そりゃ、行きたくないか。小篠先輩がいるかもしれませんもんね」 「……分かってて、なんでそんなことを聞くんだよ」 「部の先輩が誘ってくれたんで、僕もちょっと顔を出すつもりなんです。……先輩が浮気しちゃうかもしれないから、塔真先生のためにも、僕が見張ってたほうがいいかなぁって」 「……浮気?」 「小篠先輩と再会して、気持ちが盛り上がっちゃうかもしれないでしょ?」  ありえもしない例え話を持ち出す里斗に苛立ちが湧き、一季の目つきが厳しくなった。すると里斗はおどけたように、「冗談ですよ、冗談」と言って両手を上げる。  里斗と話をしていると、胸の中がざわざわと不穏にざらつき、落ち着かない気持ちになってくる。一季は軽く唇を引き結び、こんな話題はさっさと終わらせて、仕事に戻ってしまおうと考えた。すると、踵を返しかけた一季を引き止めるように、里斗がこんなことを言う。 「でもね、小篠先輩は今海外赴任してるんですって。だからその日は来られないんじゃないかなぁ」 「……海外?」 「あの人、商社に就職したらしいです。それで今はドバイへ出向中だって、友人に聞きました」 「……」  卓哉がいないのならば、参加できるかもしれない……ちらりと、一季はそんなことを考えた。そして、『卓哉の不在』という条件がなくては動くことのできない自分の弱腰ぶりに、無性に腹立たしさを覚えてしまう。  ――別に、今更あいつの姿を見たところで、何も感じたりしないはずだ。だって僕には泉水さんがいる。卓哉のことなんて、もう関係ないんだから……。  そう思おうとしたけれど、やはり身体のどこかが竦んでいるような気がする。一季は苛立ち紛れのため息を吐き、里斗のほうをまっすぐに見据えながら、静かな口調でこう言った。 「わざわざ教えてくれて、ありがとう」 「いいえ。ちょっと行く気になりました?」 「……君には関係ない。それと、卓哉の名前を出すのはもうやめて欲しいんだけど」 「何でです? 今も動揺しちゃうくらい、小篠先輩のことが好きだから?」 「……まさか。その逆だよ」  一季が吐き捨てるようにそういうと、里斗の表情から笑みが消えた。何となく無言のまま睨み合うような格好になり、重たい沈黙が数秒流れる。 「おやおやおや? 喧嘩かい?」  A棟の玄関口から、のっそりと嵐山がやってきた。まだ四月の下旬だというのに、嵐山はすでに半袖だ。むっちりと盛り上がった見事な胸筋を、窮屈そうにワイシャツの中へ押し込めている。 「……嵐山先生、お疲れ様です」 「ほほ〜、あのイケメン准教授をめぐってネコの喧嘩か。春だねぇ」 と、今日もあい変わらず嫌味な口調である。  嵐山が現れたことで、里斗は一季から目を逸らす。そして、今度は不遜な目つきで嵐山を見上げた。 「なるほどねぇ、泥棒猫の君も、あのイケメン准教授のことはまだ落とせてないんだ」 「…………はぁ?」  ガチムチ営業マンを寝取られたことをまだ根に持っているらしく、嵐山は刺々しい口調でそう言った。真上からジロジロと見下ろされつつ嫌味を言われることに腹を立ててしまったのか、里斗も、これまでになく剣呑な目つきで嵐山を睨み上げている。……不穏な空気があたりを包み、何だか嫌な予感がしてきた。  ほどなく予感は的中した。  里斗が嵐山に向き直り、勝気な猫のような目を釣り上げて、斜め下からジロリと睨めつけている。 「先生、いつまでもネチネチネチネチしつこいですね。そもそも、誘ってきたのはあっちなんですよ? しかも大学内で学生の僕をナンパしてきたスケベ野郎なんですよ? その誘いを断る理由もなかったから、僕は相手になっただけです。あなたに文句を言われる筋合いがどこにあるんですか?」 「……んなっ……この泥棒猫が、居直りやがって……!!」  ふるふる、と嵐山が怒りのあまり、自慢の筋肉を震わせた。対する里斗は涼しい顔で、フンと鼻を鳴らして意地の悪い笑みを浮かべている。 「だいたい、先生とあの営業さんはセフレなんでしょ? 恋人はいない、さみしいから相手になってくれって拝み倒されたからセックスしてやったんです。それなのに、なんで外野のあんたにぐちぐち言われなきゃいけないんですか? 文句があるなら、相手に直接言ってくださいよ。僕はもう、あの男に興味はありませんし、関係もありません。毎度毎度絡まれるのは迷惑ですし、時間の無駄だ。金輪際、僕に近づかないでもらえますか」 「ぐぬぅ…………」  欧米風のジェスチャーを交えながら饒舌に正論をまくしたてる里斗を相手に、嵐山はぐうの音も出ないようだ。さすが、名門大の大学院へ進学しているだけあって、里斗はかなり弁の立つほうであるらしい。  言い負かされた嵐山は、唇をへの字曲げ、怒りや悔し涙を堪えるようにぶるぶる拳を震わせている。そんな姿を見ていると、何だか嵐山が哀れに思えてきた。一季はため息交じりに二人の間に入ると、里斗に向かって「言い過ぎだよ」と言った。 「言い過ぎも何も、僕はありのままの事実を先生に教えて差し上げただけです」 「まぁ、そうかもしれないけど……」  すると、嵐山はぶるぶるぶるぶると拳を揺さぶりながら、とうとう嗚咽を漏らし始めてしまった。 「…………セフレ……どうせ僕は、セフレだ……。呼べば尻尾を振ってやって来る、都合のいいメス犬なんだ…………分かってたさ、分かってたさそんなことは……ッ……!! でも、でもっ……僕は、惚れてしまったんだから、どうしようもないじゃないか……!! カラダで堕とされてしまったんだから……どうしようもっ……ッ!!!」 「せ、先生」  そろそろ講義時間が終わり、休憩時間に差し掛かる。ゼミを終えた学生や教員が、ちらほらとエレベーターホールを横切り始めている。そんな中、ガチムチマッチョの嵐山が、小柄な美少年においおい泣かされているのだ。これが目立たないわけがない。一季は慌てて、二人をどこか別室へ連れて行こうとしたのだが。 「どうせ僕は!! どうせオナホール扱いをされているだけだったんだッ!! 分かってるけどっ……そんなはっきり言わなくてもいいじゃないか!! 根っからのクソビッチの貴様に何が分かる!! うわああああ!!」 「あっ、嵐山先生……!」  嵐山は里斗にそう言い放つと、ものすごいスピードでその場から走り去ってしまった。あたりがざわ……と生ぬるくざわつく中、里斗はいたって涼しい顔だ。中庭の方へ消えて行った嵐山の方を一瞥した後、一季を見上げてニヤリと笑う。 「根っからのクソビッチだって。ふふっ、笑っちゃうな」 「……渡瀬くん」 「はいはいはい、お説教ならやめてください。それも時間の無駄ですよ。ぬるい小言を喰らったくらいじゃ、この性格は変わりませんし」  飄々とそんなことを言ってのける里斗の笑みに、一季はふと翳りのようなものを見て取ったような気がした。 「それに、今の僕の本命は塔真先生ですから。……先輩には、負けませんよ?」 「またそんなことを言って……」 「ま、もし同窓会に行かれるんでしたら、また向こうで会いましょう。楽しみにしてますね」  里斗はにこっと可愛らしい笑顔を浮かべてひらりと手を振り、身軽に踵を返して歩き去っていった。

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