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第36話 慣れ……?〈泉水目線〉
「さっきはすみません……。あの、言わなくていいことを……」
自室に通されるなり、一季が申し訳なさそうに謝罪してきた。泉水は首を振りつつ「いえいえ、大丈夫ですよ」と応じていたのだが、案内された一季の部屋の空気を吸い込みながら、内心ひどく気を高ぶらせていた。
――おおお……こ、ここが、若かりし一季くんが過ごしてきた部屋……!! ふおお……なんやええ匂いするで……ああ……あかん、あかんわ……なんかよう分からへんけど興奮する……!
シャッっと小気味良い音を立てながらカーテンを開け、ベランダに面した窓を開けている一季の後ろ姿を見つめているだけで、俄然鼻息が荒くなってくる。
だが、こんなところでいきなりスケベな行為に及ぶわけにはいかない。泉水はすーーーーーはーーーーーと深呼吸をして、勃起しそうになる己を律した。
「き、き、きれいにしてはるんですね〜。家を空けていたとは思えへん片付きぶりっていうか……」
「ええ、二葉が定期的に掃除をしてくれているみたいなんですよ」
「おお……さすが」
「あの子も忙しいのに、本当にマメで。助かります」
「ですね……」
だいぶとブラコンを拗らせている二葉だが、泉水とは思いもよらぬ共通点が明らかとなったおかげで、初対面時よりはまろやかな口調で話してくれるようになった。二葉の中では、どうやら『童貞』=『誠実』という図式が構築されているらしく、泉水への評価が少し上がったようである。
台詞は相変わらず刺々しいが、つららのような目つきが和らいだことで、かなり話しやすくなった印象だ。
一方三騎からは、「え、あんたも童貞なわけ? ふーん、ダッセー」という冷ややかな一撃を食らった。少なからず心にダメージを負ったものの、三騎はそれ以上は泉水の下半身事情を掘り下げてはこなかった。むしろ、『学生時代にどうやって身体を鍛えたのか』『どうやれば泉水のように背が伸び、筋肉質な身体になれるのか』という、泉水の筋肉事情に興味津々だ。
シャツをめくられ、腹筋や胸筋を撫でまわされ、一季にもそんなことされたことないのに……と思いながらも、三騎の積極的かつ有無を言わさぬ強引な手つきに抗うこともできず、されるがままになってしまった。
そして結局、最後は一季が三騎の首根っこをひっ掴み、「いい加減にしなさい!」と叱りつけていたものである。
賑やかな場所から一季の部屋へ案内され、久々に二人きりになったような気分である。二人で過ごす穏やかな時間に癒しを感じつつ、手荷物を片付ける一季の横顔を見つめていた。
「同窓会の時間まで、ちょっとゆっくりしててくださいね」
「あ、はい」
同窓会は十七時開始であるらしい。ちなみに今は十六時少し前である。
勧められるままベッドに腰を下ろし、改めて部屋の中を見回してみた。
広さは八畳ほどであろうか、置いてあるのはベッドと本棚、そして小さなパソコンデスクくらいのもので、すっきりとした部屋である。フローリングの床にはホコリひとつ落ちておらず、生真面目に掃除をする二葉の姿がやすやすと想像できた。
一季は、ウオークインクローゼットの扉を開け、黒いスーツカバーを取り出したりしている。そのクローゼットの中に、恐らくは、昔の制服であるとか、陸上部時代のユニフォームといった麗しの品々が収められているのか……と考えるだけで、もわわわんと妄想が花開き、泉水の胸はドキドキと高鳴るのである。
すると、不意に一季がこちらを振り返った。鼻息を荒くしていた泉水は、ぎょっとして肩を揺らした。
「……泉水さん」
「えっ、はい!! なんでしょう!!」
一季は手にしていたスーツをパソコンデスクの上に置くと、ベッドに座った泉水の方へとゆっくり歩み寄ってきた。そしてすっと隣に座り、どことなく晴れない表情で泉水を見上げた。
「なんだか、ちょっと緊張してきてしまって……」
「……あ、ああ。もうすぐですもんね」
同窓会の開始時刻が近づいて、一季の緊張感は否応無しに高まっているらしい。弟たちと戯れていた時の兄然とした表情が嘘のように、今の一季は心もとなげな顔をしている。膝の上で両手を硬く握り締める様子からも、不安を感じている様子が見て取れた。
泉水の前でだけ見せてくれるその変化が、殊更に愛おしい。泉水はそっと手を持ち上げて、握りしめられた一季の拳をぎゅっと包み込んだ。冷たい手だ。
「あ……泉水さん」
「大丈夫。俺、すぐそばにいますから」
「……はい。ありがとうございます」
「行ったら行ったで、きっと懐かしくて楽しいですよ」
「うん……そうですね。せっかく行くんだし、楽しまないと」
「そうですよ」
泉水が笑顔を浮かべると、一季がそっと身を凭せ掛けてきた。ふわりと感じる一季の重みと体温に、泉水の血潮がじゅわっと熱くなる。そして一季は、しっとりと色っぽい眼差しを泉水に向け、ささやくような小さな声で、こんなことを口にした。
「ちょっとだけ……あの……キス、してもいいですか?」
「……………………エッ……!!??」
「ちょっとだけで、いいんで……。なんか、勇気をもらえそう気がするんです」
「…………こ、ここ、こここっここで…………!?」
――あ、あ、あ、アカーーーーーン!!! し、階下(した)には、ブラコンこじらせた弟さんもいてはんのに、こんな、ベッドの上でこんなッ……!! ベッドの上で、そんなセクシーな目つきで、そんな、そんなこと言われたら、ちょ、あかん、あかんて……ッ……!!
と、焦りもするが、一季から『キスしたい』と言ってもらえるだけで、昇天してしまいそうなほどに嬉しいのである。
それに、キスはしたい。大いにしたい。いつぞ研究室でハグをしてからこっち、泉水は一季に指一本触れていないのだ。圧倒的に一季が足りない。もっともっと触れ合いたいと熱望していたのだから。
泉水はすーーーーはーーーーと深呼吸をして、一季の方へ向き直った。そして一季の肩を、力んだ両手でガッと掴む。
「……あ、あの、痛い……」
「えっ、あっ!!! すみません!!!」
「そんなに硬くならないでください。……ね?」
「はっ、はい……」
一季は優しく微笑むと、そっと泉水に身を寄せた。そして上半身をぐっと伸ばして、泉水の唇に触れるだけのキスをする。それだけですぐに離れていこうとする一季の肩を、泉水は無意識にぐっと抱き寄せていた。そして角度を変えて、もう一度唇を重ねる。
――あ、ああ…………やらかい…………。むっちゃきもちええ……。
互いの唇を啄むようなキスを交わしているうち、一季の身体から力が抜けてゆくのを感じた。泉水は腕に力を込めて一季を支えながら、欲しいままに唇の弾力を味わった。
触れ合った場所から、愛おしさが全身に広がって、一季を離したくなくなってしまう。体重を預ける一季のぬくもりや、重なり合う唇の心地よさに夢中になるうち、いつしか一季をベッドに押し倒す格好になっていた。
「ぁ……、んぅっ……ン」
抑えた喘ぎ声に、ただならぬ熱がこもっているように感じた。その濃密な妖艷さに、思わず我を忘れそうになってしまう。
濡れた唇の淫靡な感触、部屋に響くリップ音、それらは容赦なく泉水の欲望を煽ってくる。
泉水の中の愛らしいチワワが、突如として猛々しいケダモノに豹変してしまいかけたその時、一季がぐいっと腕を突っ張った。
「い、ずみさんっ……待っ、これ以上は……!」
「…………あっ…………」
一季はしっとりと目を潤ませ、頬を紅潮させながら、泉水をひたと見上げていた。一季とのキスに夢中になるあまり、どうやら自分は我を忘れていたらしい……と、泉水はようやく気がついた。さぁぁぁ……と、全身から血の気が引く音が聞こえてくる。
「ごっ、ごご、ごめんなさい!! 俺、また調子に乗って……!!! ごめなさい!!」
真っ青になって平謝りをしながら、ベッドに押し倒していた一季を引っ張り起こす。すると一季は軽く乱れた着衣を直しながら、気恥ずかしげにこう言った。
「い、いえ、そんな、謝らないでください。あの……すごく、僕もドキドキして、やめられなくて」
「えっ、ど、ドキドキ!? う、うそぉ……!?」
「ほんとですよ。泉水さんが、こんなに積極的にキスしてくれるなんて思わなかったので、びっくりしましたけど……すごく、素敵でした」
「はうぅ…………」
一季にキスを褒められて、嬉しさのあまり天に召されそうな気分になった。思わず両手で顔を覆っていると、一季が軽やかに笑う声が聞こえてくる。
「お互い、ちょっとずつ慣れて来ましたね」
「……慣れ、てきてんのかな俺……。一季くんと、き、キス(やや小声)するんめっちゃ気持ちええから、つい、我を忘れて……」
「ふふっ、僕もです。……嬉しいな」
噛みしめるようにそう呟き、一季は軽く泉水の頬にキスをしてくれた。ただでさえ赤くなっていた顔が、さらにかぁぁぁと赤くなり、泉水は思わず鼻を押さえた。鼻血が出そうだ。
すると、一季が身軽にすっと立ち上がった。椅子に引っ掛けていたスーツ袋を手に、泉水にふわりと微笑みかける。
「元気をもらったところで、着替えますね。今日はスーツで行かなきゃいけないみたいなんです。いいお店だそうで」
「あっ、そ、そうなんですか」
「そ、それであの……着替えをしてもいいですか?」
「え? え、いや、生着替え!? そ、それやったら俺、廊下に……!!」
「いえあの、いてくださってもいいんですけど……」
「で、でも……っ……!! お、俺、外で待ってるんで!! 終わったら言ってくださいね!!」
男同士で、しかも着替えくらいでそこまでする必要があるのかどうか甚だ疑問だが、泉水は素早く立ち上がり、サッとドアを開けて廊下へ出た。
そして仰天する。
二葉と三騎が、廊下の壁にへばりついていたのである。
「うぉおおおおお!? な、なに、何してはんの……!?」
「べ、べつに!?!? ここは僕の家なんですよ!!?? 僕がどこをどう歩いていても不思議ではないはずですが何か!!??」
「おいおいおいマジかよ。着替えとかチューだけでどんだけ照れてんだよ、大丈夫かよあんた。それでほんとにエッチできんの? どんだけピュアなんだよ信じらんねー」
泉水と負けず劣らず真っ赤になりながらへどもどしている二葉に対し、三騎は生ぬるい目つきである。
泉水があっけにとられていると、静かに一季の部屋のドアが開いた。
そして、地の底を這うような低い声を出しながら、一季はにっこり、凄みのある笑みを浮かべた。
「お前たち。…………そこで何してた」
「「あ……」」
二葉と三騎の顔から血の気が引いて行く様を、泉水はただ静かに見守った……。
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