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第38話 里斗の過去
里斗は飲み物を取りに行くでもなく、そのまま出窓から庭へ出た。
室内 ではちょうど、幹事と司会者が壇上に立ち、賑やかに挨拶を始めているところである。庭に出ているのは一季と里斗だけで、皆の賑やかな声はどこか他人事のように聞こえた。庭園にはアップテンポなジャズが流れており、若者たちのにぎやかな声と相まって、とても楽しげな雰囲気である。
一方、背の高い生垣の向こうには、耳慣れた車の騒音が響いている。非日常と日常の隙間に取り残されたような気持ちになりながら、一季は里斗の背中を見つめていた。
「……みなさん、結構覚えてるもんなんですね。人の悪い噂って」
「……」
「嶋崎先輩、本当に知らなかったんですね。びっくりしましたよ、ニブいんですね」
「……まぁ、それは否定しないけど」
里斗は普段通りの小憎たらしい口調でそんなことを言い、プールサイドで一季をすっと振り返った。感情の読めない愛らしい笑顔を浮かべているが、高校時代の里斗の身に起こった出来事を思うだけで、一季の表情は暗くなる。
そんな一季の顔を見て、里斗は唇を斜めに吊り上げて笑う。その表情は、一季を小馬鹿にしているようにも見えるし、自嘲の笑みのようにも見えた。
「何であなたがそんな顔するんですか。こっちまで湿っぽい気分になるんですけど」
「卓哉と、何があったの? 僕を連れ出したのは、そのことを話したかったから?」
「……」
単刀直入に、一季はそう斬り込んだ。
すると里斗の顔から、すっと笑顔が消えて無表情になる。まるで、仮面が剥がれ落ちるように。
「あいつのことで突っかかってくるから、てっきり卓哉に好意があるんだと思ってた。でも、そうじゃなかったんだね」
「ええ、そうですね。一回、レイプされたことはあります」
「えっ……」
ざわっ……と全身の肌が泡立った。かつて卓哉にされたことを思い出し、腹の奥に嫌悪感が蘇る。
――あれと同じことを、渡瀬くんもされていた? どうして……?
身体を強張らせている一季を見て、里斗はくすりと小さく笑った。
「どうしたんですか? 先輩。怖い顔して」
「そんな……どうして」
「高校に入学した頃から、僕、小篠先輩に憧れてました。……ま、結局、外面に騙されてただけだったんですけどね」
「……」
「僕が馬鹿だったんですよ。……ほんっとに、くだらない出来事です」
ついさっきまで耳に届いていた喧騒が全て、一気に遠ざかっていってしまったような気がする。
一季が全身を強張らせる中、里斗は淡々と、その時のことを話し始めた。
「僕は高一の頃クラス委員をやっていたので、生徒会との関わりが多かったんです。小篠先輩、その時副会長とかをしてたでしょ。だから委員会とかで、何度も顔を合わせてて」
「……そうなんだ」
「すごく、優しい先輩だなって思ってたんです。頭が良くて、スポーツもできて、生徒会でも信頼されてて……完璧ですごいなぁって、純粋に憧れてた。でも僕、その頃はもう自分がゲイだと自覚していたから……憧れると同時に、好きになってたんだと思います」
不意にその場にしゃがみ込み、里斗はプールの水を指先で撫でた。白い指が青い水に触れるたび波が生まれて、水面に浮かんだ花びらが微かに揺れる。長いまつ毛を伏せる里斗の横顔もまた、いつになく儚く頼りないものに見えた。
「あなたと小篠先輩が付き合ってるってことは、すぐに気づきました。……悔しかったなぁ。ノンケならまだ諦めもつくけど、付き合ってるのが男なんですよ? それなら、僕だっていいじゃないか、僕の方が小篠先輩にふさわしいのにって……嶋崎先輩のこと、すごく、憎たらしかったです」
「……そう」
「涼しい顔して、みんなから愛されて、ケチのつけようがない優等生で……なんていうか、人生ふわふわ漂ってるだけ、みたいな人に見えたんです。小篠先輩に愛されることも、きっと、なんのありがたみも感じてないんだろうなって。……あなたの淡々とした顔に、ものすごくムカついてた」
過去の一季を睨みつけるように、里斗はきつい目つきで水面を見据えている。
しかし里斗の激情に触れ、逆に一季の心は冷静に凪いでゆくようだった。静かな声で、問いかけてみる。
「……性のことで、君も色々と苦労してきたんだね」
「まぁ、そうですね。こんな見た目なんで、子どもの頃からセクハラは慣れっこです」
「子どもの頃から……?」
「けど僕、そういうの嫌いじゃなかったですから。『かわいいね』『きれいだね』ってちやほやされる感じ、たまらなく気持ちが良かった。初めてのセックスの相手は、中一の時に受け持ってもらってた塾講師の先生でした」
「……ちゅ、中一……!? そんな……」
「相手も結構真剣だったみたいなんで、そこそこにいい思い出を作ってもらいました。まぁ親と塾にバレて、すぐ会えなくなっちゃったんですけどね」
「……」
感情の読めない声色で、里斗は台詞でも読み上げるようにそう語った。しかし、伏せ目がちの大きな目に、言いようのない哀しみのようなものが浮かんでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
「君はひょっとして、その先生のこと……」
「あ〜〜、小篠先輩とエッチしてる嶋崎先輩を想像すると、気が狂いそうになったなぁ」
一季の言葉を遮って、里斗はわざとらしい大声でそんなことを言った。慌ててあたりを見回すも、そばには誰もいない。同級生たちは皆、同窓会を楽しんでいるようだ。
その楽しげな雰囲気とはかけ離れた重々しい空気が、二人の間に沈殿している。
里斗は昏い瞳を一季に向け、唇の片端を吊り上げてこう言った。
「だから、小篠先輩を誘惑したんです。欲しくて欲しくてたまらなかったから。なので、レイプなんて言っちゃいけないんですよね。抱いてもらえた、って喜ばなきゃいけないところだ」
「それは……君から誘った、ってことなの?」
「ええ。高二の秋ごろだったかな。たまたま、一緒に帰れた日があったんです。この機会を逃してはいけないと思って、僕は先輩に告白しました。自分からキスまでしたりして」
「……告白、したんだ」
「ええ。先輩は驚いた顔をしてましたけど、『ちゃんと話そう』って、僕を自宅に上げてくれました。しめたと思った。これで先輩を、僕のものに出来ると思ったんです。でも……人目のない自室に連れ込まれた途端、あの人は目の色を変えて僕にのしかかってきました。『ようやく釣れた。お前とは一回ヤッてみたかったんだ』って言われて……それで」
過去の痛みを噛み殺すように、里斗はすっと目を閉じる。
一季もまた、卓哉から浴びせられた罵声や行為をまざまざと思い出し、体温が一気に冷えていく。思い出したくもないあの日の恐怖が、一季の拳を震わせる。
――聞きたくない……。これ以上、そんな話……っ……。
「嶋崎先輩とその時まだ付き合ってたのかどうかとか、あなたとのセックスがどんなだったかは知りませんけど、あの人のセックスは、とても暴力的でした。こっちの意思とか、感情とか、感覚とか……そういうのどうでもいいんでしょうね。これまで見てきた小篠先輩とはまるで違う人間みたいで、怖くて怖くてたまりませんでした」
「……う」
――同じだ、僕の時と……。
一季はごくりと息を呑む。出来ることなら、耳を塞いでしまいたかった。
いつしか辺りはすっかり夜に染まって、プールサイドに置かれたキャンドルライトの灯りが、幻想的に浮かび上がっている。里斗が閉じていた目を開くと、青く揺れる水面が、沈んだ瞳に映った。
「でも、誘ったのは僕だ。嫌がっても、『そっちから誘っといて何言ってるんだ、慣れてるんだろ?』って、力づくで、何度も何度も……。痛くて、怖くて、悔しくて……でも、このまま言いなりになるのは嫌だったから、僕は先輩に向かって、そんなんじゃ全然イけない、下手だ、って言ってやったんです」
乱暴な行為に怯むことなく、そんなことを言ってのけた里斗の行動に、一季は驚きつつも不安を覚えた。
卓哉はひどくプライドが高く、貶されることにまるで慣れていない。しかもその頃、卓哉はインターハイでの実績により、有頂天になっていた時期だった――。
「……その時の先輩の顔……ははっ、すごかったですよ。殺されるかもって思いました。何回か殴られて、『タダで済むと思うなよ』って脅されて……次の日学校へ行ったら、僕は『小篠先輩に身体で迫ったホモ野郎』『男なら誰とでもヤるクソビッチ』ってことになってました」
「そんな、ひどい……」
「でもまぁ、ほぼ事実ですからね。弁明しようにも、相手は学校中の人気者です。僕が何を言おうが、かないっこありません。結局、僕の負けだった」
「……なんてことを」
「ま、僕に男を見る目がなかったってだけですよ」
一季と同じ経験をしているはずなのに、里斗の飄々とした表情で、軽く肩をすくめている。一季の背中には嫌な汗が伝っているが、里斗は今、いったいどんな気持ちでこの話を一季に語っているのだろう。
かさかさに乾いた唇で、一季はこう尋ねずにはいられなかった。
「君は……どうして僕にこんな話を」
「……どうして、かなぁ。強いて言うなら、この話を聞いたあなたが、どういう反応をするのか見てみたかった……って感じかな」
「え……?」
その台詞の意味を図りかね、間の抜けた声を出してしまった。
里斗はすっと立ち上がり、一季と真正面に向かい合う。
「……僕の、反応……?」
里斗は一体何を言っているのだろう。一季はこわばった動きで首を傾げ、どことなく荒んだ表情を浮かべる里斗の顔をじっと見据えた。里斗もまた一季の目線を真正面から受け止めて、獲物を狙う獣のような隙のない目をしている。
「すごく、悔しかったから。僕はあんな目に遭ったのに、先輩はあの人に大切にされてたのかと思うと、それまで以上にあなたが憎たらしくてたまらなくなった。大っ嫌いでした、あなたのことが」
「っ……」
「そして今もまた、僕が憧れた人を横から攫って、のうのうと幸せを享受しているなんて、許せないじゃないですか。だから奪おうと思ったんです。塔真先生のことも、この身体で、あんたの目の前で……!!」
「……やめろ!! 」
一季は思わず、声を荒げた。
酷い頭痛がする。利き手を持ち上げて頭を押さえると、整えていた髪の毛がくしゃりと乱れた。脂汗でワイシャツが肌に張り付く感覚が、気持ち悪い。その感触はまさに、卓哉から行為を押し付けられていた瞬間の不快感と同じだった。制服のカッターシャツが肌に張り付くあの感覚を思い出すだけで、吐き気がぐっと込み上げてくる。
「……違う……!! 違う、違う……!! 僕があいつに大切にされていた? そんなわけないじゃないか!! 僕だってずっと……ずっとあいつに……!」
肩を上下させ、一季はなりふり構わずそう叫んだ。
里斗はただただ無表情のまま、じっと一季の激昂を見つめている。
言いたいことは山のようにある。里斗が理不尽に感じている嫉妬への怒り、卓哉から受けた屈辱への痛み、屈服させられるしかなかった悔しさも、見せつけられた自分の弱さも、情けなさも、悲しさも、全て、今ここでぶちまけてしまいたいと思った。
しかし、これまで押さえつけていた負の感情が一気に湧き上がり、それに当てはまる言葉を見つけることができない。それがもどかしくて、やるせなくて、涙が出そうになる。
一季は震える唇をぎゅっと噛み締め、体側でぐっと拳を固めた。
そして、押し殺した低い声で、里斗に向かってこう言い放つ。
「僕のことは、いくらでも嫌えばいい。けど、身勝手な理由を作って、泉水さんにまで手を出すなんて……そんなの、絶対に許さないからな!!」
自分の荒い呼吸音が、聞こえる。昂ぶった鼓動の音も、やけに煩く耳に響いた。
一季の動揺を見つめていた里斗が、ふう……と長いため息を吐く。
そしてゆっくりと目を伏せて、里斗は唇を少し歪めた。
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