39 / 71

第39話 僕には分かる

  「……先輩も、そんな声が出せるんですね」  間延びした声で、里斗はそんなことを言った。一季はなおも厳しい目つきで、里斗を見据えたままである。 「……僕は、卓哉の奴隷みたいなものだった。君と同じ。これで満足?」  淡々とそう語る一季を見つめる里斗の瞳が、訝しげに細められる。一季は奥歯をぐっと噛み締め、吐き出すように話を続けた。 「何もかも同じだよ。こっちから好きになって、セックスで痛めつけられて、おしまい。でも僕は、君のように抵抗することができなかった腰抜けだ。そのせいでズルズル関係が長引いて、僕が勝手に壊れていってしまっただけ」 「……え?」 「不感症のくせにセックスに依存して、ぬくもりを求めて、男を漁ってた」 「……不感症、ですか」 「泉水さんと出会うまで、僕は少しおかしかった。セックスしても全然気持ちよくないのに、でも誰かに愛されたくて、どうしようもなく寂しくなって、相手を探して……不毛な行動を繰り返してたんだ」 「……へぇ」 「……そうだよね、行動だけ見れば、僕はただのビッチだ。自分で自分が嫌になったよ。数え切れないくらいにね」  その時、会場のほうから、どっと楽しげな笑い声が響いてきた。  ふとそちらに気を取られた一季は、顔を上げてゲストハウスのほうへ目をやった。余興の漫才か何かだろうか、上座に設けられた壇上で、二人の男が大げさな身振り手振りで場を沸かせている。  その光景はあまりに明るく、どこか遠く、自分が今どこにいるのか一瞬よく分からなくなった。里斗と話していると、否応無しに気持ちが過去に遡りそうになる。  だが、今の自分は、あの頃の自分ではない。泉水の優しさに救われ、泉水の笑顔とぬくもりに力をもらった。もう、恐れるものは何もないはずなのだ。  一季は大きく息を吸い込み、深く吐く。そしてまっすぐ、里斗を見つめた。 「渡瀬くんは、きっと僕よりずっと強い。卓哉に抵抗する力があって、ゲイだと周りに言いふらされた過去があっても、今日ここへやって来たんだ。僕には出来ないことだよ」 「……何ですか、それ。嫌味ですか?」 「いや、本当にすごいと思ってるよ。……いつかは優しくしてもらえるかも、なんて情けない期待を抱いたり、捨てられるのが怖くて言いなりになっていた僕とは、全然違う」 「……」 「でも……傷ついた君の気持ちは、僕にも分かるよ。……怖かった、よね。すごく」  一季のその言葉に、里斗のまつ毛がかすかに震えた。  これまでずっと、どこか作り物めいた笑みを浮かべていた里斗の顔に、初めて人間らしい動揺が見て取れたような気がした。一季は里斗をじっと見つめたまま、ほんの少し、歩み寄る。 「あんなやつにひどい目に遭わされて、誰にも言えなくて……つらかった。自分が情けなくてたまらなかった。君も、そうなんじゃないの?」 「……」 「人に言えるわけないよね、こんな話。君の目にはどう見えていたか分からないけど、あの頃の僕は、ものすごく孤独だった。でも今になってようやく、当時のことをきちんと振り返ることができるようになってきたんだ。……君は、どうなの? 今も、孤独を感じるの?」 「……孤独」  里斗の唇が震えている。  一季を見つめる色素の薄い瞳が、涙の膜に覆われていくのが見えた。里斗はぎゅっと下唇を噛み、ぐしゃりと顔を歪めて俯いた。  硬く瞑った両目から涙が溢れ、白い頬を伝ってゆく。苦しげな嗚咽がひとつ、ふたつと里斗の呼吸を乱す中、一季は堪らず手を伸ばし、里斗の肩を抱き寄せた。 「っ…………うっ……」 「ここじゃ目立つ。あっちで、座ろう」 「……はい……」  同窓会の喧騒が届かない場所へ、一季は里斗を導いた。  そこは、ゲストハウスの玄関口から直接庭へと通じる小径である。短く整えられた芝生に埋もれるように丸い飛び石が置かれ、建物を背に、木のベンチが二つ並んでいる。  受付が締められている今、近くには誰もいなかった。一季は里斗をベンチに座らせ、自分もその隣に腰を下ろす。すると里斗は膝に肘をついて頭を抱え、深く長いため息をついた。  一瞬でも涙を見せてしまった自分を恥じるように、里斗はごしごしと拳で目元を拭っている。一季がハンカチを差し出すと、ぎろりと三白眼で睨まれてしまった。 「はぁ…………くそっ……泣くなんて」 「泣きたい気持ちも、僕には分かるよ」 「そういうこと言わないでください。……ぐすっ……はぁ……」  里斗は一季のハンカチをむしり取ると、それでぎゅっと目元を押さえた。憎まれ口を叩いていても涙は溢れてくるようで、何度も何度も目をこすり、里斗は「くっそ……」と悪態を吐き続けた。 「……去年の冬……あなたを初めて大学で見かけた時から、小篠先輩のこと思い出してしまって……もう、一人になるとどうしようもない気分になって、暴れたくなったり、人を傷つけたくなったりしてたんです。そんな時声をかけてきたのが、嵐山先生がこだわってるマッチョ男で……」 「ああ……あの人」  一季はふと、取り乱す嵐山の顔を思い出す。頭の片隅で、あの二人は結局どうなったのだろう……という考えが浮かんだ。だが里斗が鼻をすする音で、一季ははっと我に返った。 「塔真先生に憧れていたのは、本当です。あの人は、学会では有名人ですから。研究者としても、男としても、素敵な人だなと思ってました。あの人が英誠大に来るって聞いて、めちゃくちゃ嬉しかった」 「……うん」 「なのに、塔真先生と嶋崎先輩が仲良さそうにランチしてるところを見かけてしまって……なんか、自分でもコントロール出来ないくらいの怒りを感じました。それで、塔真先生を誘惑したんです」 「……そう……」 「でも、嶋崎先輩のことがなければ、僕、塔真先生に手を出そうなんて考えなかったと思います。ただ僕は、大嫌いなあなたが、苦しむところを見たかっただけだ」  里斗は一切一季のほうを見ないまま、淡々とそう語った。  里斗の口からは、一季への嫌悪感があいも変わらず強調されているけれど、不思議と今はそれを不快には感じない。里斗の台詞には、どことなくだが、一季への親しみのようなものが滲んでいるような気さえしていた。 「そんなにまで僕のこと、意識してたんだね……」 「なんかその言い方気持ち悪いんですけど」 「でも、そうじゃないか」 「……まぁ、現実を知った今となっては、あなたなんかに嫉妬していた自分が恥ずかしいです。時間の無駄でした」 「ははっ……キツイなぁ、渡瀬くんは」  一季が気の抜けた笑みを浮かべると、里斗はようやく顔を上げた。そしてどことなくバツの悪そうな顔で一季をちらりと見たあと、里斗は脚を投げ出し天を仰いだ。 「僕は多分……あなたに嫉妬することで、小篠先輩にされたことを忘れようとしていたんだと思います。怖かったし、痛かったし、傷つけられたけど、それ以上に悔しくて情けなくて恥ずかしくて、たまらなかった。でも、嶋崎先輩に怒りを感じている間は、自分を保ててたような気がする」 「そっ……か」 「なんかもう、色々どうでもよくなってきちゃったなぁ……」  里斗の呟きが、夜空へ吸い込まれていく。  一季への嫉妬心が消えたせいか、里斗の全身を包み込んでいた攻撃的なオーラが、急になりを潜めてしまったように感じた。  これまでずっとトゲトゲしい態度ばかりを見せられていたせいか、すっかり気力を失っているように見える里斗の姿に、なんだか妙な不安を覚えてしまう。何か、里斗を励ますことのできるような言葉がないかと思い倦ねていると、ふと、きつい香水のような匂いが一季の鼻腔を刺激した。 「あれ? 誰かと思えば……一季? 一季じゃないか」  その声に、一季の全神経が慄いた。  少し鼻にかかったような、甘い男の声。人を心地よくさせるような、柔らかな声音だ。  なのにそれは、ぞっとするほどにおぞましい響きを持って、一季の鼓膜を震わせる。  恐る恐る、声のしたほうを振り返る。  庭園を照らす水銀灯の明かりに浮かび上がるのは、すらりとした長身の男の姿。 「やっぱり。久しぶりだな、一季」  光沢のあるネイビースーツに身を包み、大きなバラの花束を抱えた、小篠卓哉の姿があった。

ともだちにシェアしよう!