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第41話 負けたくないから②

 だが、覚悟していた痛みや衝撃が、一季の身体に降りかかることはなかった。  突如として、目の前に立っていた卓哉の姿が視界から消えたのである。 「……えっ……」  目の前に泉水がいた。  卓哉のジャケットを荒々しく鷲掴み、ためらうことなく拳を振り抜く泉水の姿が、一季の目に飛び込んできた。  骨と肉が激しくぶつかり合う鈍い音が、一瞬遅れて一季の耳に届いた。芝生の庭に倒れ込み、自ら踏みにじった薔薇の上で、卓哉が呆然としている。  無表情で卓哉を睥睨する泉水の視線の冷たさに、一季は思わずハッとした。 「い……泉水さん!? どうしてここに……!」 「コーヒーショップから、ここへ入っていく小篠先輩の姿が見えたんです。それで、急いでここに」 「えっ? ふ、二葉!?」  生垣のそばからすっと姿を現したのは、弟の二葉である。何がどうしてそうなったのかと戸惑いつつも、怒りのあまり肩を上下させている泉水の横顔を、一季は見つめた。 「泉水さん……」 「こいつが……例の男なんでしょ。一季くんにトラウマ植えつけた、ゲス野郎なんですよね」 「あ……」  これまで聞いたことがないような凄みのある声で、泉水は一季にそう尋ねた。  すると、卓哉がすっと立ち上がり、殴られた頬を痛そうに撫でながら、憎々しげに泉水を睨みつける。 「誰だてめぇ!! いきなりこんなことしやがって、タダじゃ済まさねぇからな! つーかお前、一季の何なんだよ」 「……はぁ? 馴れ馴れしく一季くんの名前呼ばんといてくれるか。この人は今、俺と付き合うてんねんからな」  ずいっと距離を詰めた泉水が、荒々しく卓哉の襟首を掴んだ。自分より上背のある泉水に片手でぎりぎりと襟を締め上げられ、卓哉も若干怯えたような顔をしている。  しかし、やられっぱなしではプライドが許さないのか、泉水の手を引き剥がそうと激しくもがいた。だが、その手はびくともしない。  泉水はさらにもう片方の手で、卓哉の襟を掴んで自分の方へ引き寄せる。力負けし、爪先立ちになってふらついている卓哉は、気道を圧迫され苦しげな表情だ。 「は、はなせっ……!! っぐ……う」 「……ほんっま、ありえへん。むっちゃ腹立つわ……!! お前が、一季くんを苦しめとったんやな!! よう平気な顔して、のこのこここまで来れたもんやなぁ!? あぁ!?」 「し、しるかっ……!! おまえには、かんけいなぃっ……!!」 「関係大ありやドアホ!! お前のせいで一季くんがどんだけ苦しんだか分かってんのか!? お前のせいで、一季くんは…………っ!!」  言葉になり切らない怒りを飲み込むように唇を引き締めて、泉水はぐっと拳を固めた。さらにもう一発、殴るつもりなのだろう。  その広い背中に、一季は慌てて飛びついた。汗ばむほどに激昂している泉水の呼吸は、肩が上下するほどに速かった。一季はぎゅっと泉水の背中に抱きついて、無我夢中で訴えかけた。 「泉水さん! もういいんです!」 「けどっ……!! 一発じゃ殴り足りひんわ……! こいつ、うちの渡瀬にも手ぇ出しててんやろ!?」 「そうだけど! こんなゲス男のために泉水さんがこれ以上暴力を振るうなんて、そんなのダメです!! もうやめてください!! 僕はもう、大丈夫だからっ……!!」  一季が必死にそう訴え続けると、ようやく泉水の身体から、少しずつ力が抜け始めた。  泉水は拳を緩め、荒っぽく卓哉の腕を振りほどいた。すると、支えを失った卓哉はふらつき、またどしんと芝生の上に尻餅をついてしまう。  げほげほと咳き込みながら、憎々しげに泉水を見上げる卓哉の前に、泉水はずいと仁王立ちした。すると卓哉が、びくりと震え上がっている。 「……とっとと消えぇ。もう二度と、一季くんと渡瀬の前に、そのゲスいツラ見せんなや。ええな」 「チッ……何なんだよてめぇ、偉そうにっ……」 「はぁ? おい、返事が聞こえへんな。分かったんか!?」 「……っ……クソっ……!! 言われなくてもなぁ、こっちだってもうお前らに用なんてねーんだよ!!」 「な、んやと……!!?」  卓哉はふらふらと後退しつつ、これが最後とばかりに捨て台詞を吐いている。泉水が卓哉を追って駆け出しそうになるのを、一季は既のところで押しとどめた。 「待てやコラァ!! ふざけんなやお前!! あんのクソ野郎、ケツから手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタいわしたらな気ぃ済まへん……!!」 「泉水さん、落ち着いてっ……!! 落ち着いて……ください!!」 「一季くん、何で止めんねん! あのハゲ、追いかけてどつき倒したらな……」  一季と泉水が押し問答をしている横で、里斗が突然吹き出した。そして、声を立てて笑っているではないか。 「ちょっ……ちょっ……待っ……マジで、マジで言う人初めて聞いた……っ。け、ケツから手ぇつっこんでっ……って、ふはっっ、ちょ、まって、お腹痛い……」 「な、何がおかしいねん!」 「ちょ、ごめ、ごめんなさいっ……だって、ふふっ……奥歯、ガタガタって……やばい、ツボった……ひーっひひひっ……」  とうとう腹を抱えてうずくまってしまった里斗である。  解せぬという顔をした泉水の顔を見ていると、一季までついつい笑えてきてしまった。 「確かに、初めて聞いたかも……はははっ、あはっ……」 「ちょ、一季くんまで……」 「もう、びっくりして……っ……あはははっ……泉水さん、いきなり来るんだもん。僕……ほっとして……もう……っ」  笑っていると、涙が溢れた。  初めは泣き笑いだったのに、胸の中から湧き上がって来るのは、安堵の嗚咽だ。ぽろぽろと流れる涙は、拭っても拭っても止まる気配がない。  ひぐひぐと泣いたり笑ったりしていると、ふわりとあたたかなものが一季の身体を包み込む。  泉水が、しっかりと一季を抱きしめている。 「もう……一季くんが殴られてまうって、めっちゃゾッとしたんやで。……はぁ……間に合ってよかった……」 「……ありがとう、ございます……。泉水さん、めちゃくちゃカッコよかった……っ……うぇっ……えぐっ……」 「いやいやそんなカッコええとかそういう問題ちゃうくて………………えっ……えっ!? お、俺……かかっ……かっこ、かっこよかった……?」 「ふふっ……うん、すごく。来てくれて、嬉しかった……っ……」  泉水の体温に包み込まれていると、心の底から安心できる。  これまでずっと緊迫してた身体から力が抜け、一季はついついその場にへたり込みそうになってしまった。

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