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第42話 二葉の事情〈泉水目線〉

   四人はそのまま同窓会を抜け、初めに泉水が入っていたコーヒーショップの二階席に腰を落ち着けた。  この一時間弱で色んなことがありすぎて、泉水の脳みそはオーバーヒート気味だ。怒りに任せて人を殴ったのも、初めての経験である。  冷静になってくると、後々訴えられやしないだろうかという不安がうっすら脳裏をかすめるが、愛おしい一季を長年にわたり傷つけてきた男を目の前にして、普通ではいられるわけがない。しかも、現場に到着したその時、まさに一季は胸ぐらを捕まれ、殴られそうになっている瞬間だったのだ。思い出すだけでゾッとする。  泉水が己を鎮めるために深呼吸していると、一季が気遣わしげな表情を浮かべつつ泉水の腕にそっと触れた。 「大丈夫ですか?」 「あ……うん、大丈夫。一季くんは落ち着いた?」 「はい、だいぶ」  ちょっと疲れた顔で一季は微笑み、泉水の隣でゆっくりとコーヒーを飲んだ。その横顔を見つめていると、ようやく、心に平静さが戻ってくるような気がする。 「泉水さん……どうしてあそこに? それに、なんで二葉までここにいるの」  もっともな質問が、一季から飛んで来る。二葉は生真面目な顔でコーヒーゼリーを食べながら、ちらりと泉水を気にしつつ、ごほんと咳払いをした。 「塔真さんがどの程度兄さんに本気なのか、きちんと確かめたかったんだ。……だから、二人で話したくて、ここに」 「えっ、そのまま帰ったんじゃなかったの?」  一季の実家から会場までは車で十分程度の距離だ。一季と泉水は二葉に車でここまで送ってもらい、コーヒーショップの前で別れたのである。だが、そのまま二葉は居残っていたらしい。 「うん。……そ、そうなんだけど……その……渡瀬先輩、そんなに僕を睨まないでもらえますか」 「……いや別に睨んでるわけじゃないけど」  里斗は気だるげに頬杖をつき、組んだ足をぶらぶらさせながら二葉を見上げているのだ。すると一季が、驚愕の表情で二人を見比べ、「えっ!? 知り合い!?」と前のめりになっている。 「知り合いも何も……。兄さん、渡瀬先輩は合気道部の先輩だ」 「…………えっ? そうなの? 合気道?」 「そうですよ。ま、真剣に鍛え始めたのはあいつにヤラれた後ですけどね」  ここへ来て素を見せているのか、後輩を前にしているからか、里斗はえらくぶっきらぼうな態度である。対する二葉は、里斗を相手にしきりに気を遣っている様子が見て取れた。それを見た一季が、分かりやすく眉を顰めている。 「ま、まさか渡瀬くんさ……うちの弟に手を出したりしてないだろうね……」 「はい? 後輩にそんなことするわけないじゃないですか。それに俺、多分、先輩ほど派手に男漁りしてませんし」 「お、おっ、おとっ? お、おとこあさりっ…………えっ? に、にいさん、それっていったいどういう……」 「わーわーわーわー!! うちの純粋な弟に変なこと吹き込むんじゃありません!!!」  いつの間にか、里斗にまで『お兄ちゃん口調』になってしまっている一季がすこぶる愛おしい。萌えのあまり床を転げ回りたい気持ちを必死で堪えつつ、泉水は曖昧な微笑みを浮かべて、アイスコーヒーを口にした。すると、里斗は小生意気な表情でフラペチーノをすすり、ふいと窓の外に目をやった。 「一季くん、渡瀬に手ぇ出されとったら、二葉くんもう童貞とちゃうわけやから。そのへんは大丈夫やと思いますよ」 「あ……そっか。それもそうですよね…………はあ、僕、頭がパンクしそうで」  一季はもう一度派手にため息をついた。すると二葉がすかさず、「兄さん、大丈夫か?」と一季を気遣い背中を摩る。そんな兄弟のやりとりを見守っていた里斗は、ずずずずーとわざとらしい音を立ててフラペチーノを吸い込んだ。 「全然似てないなと思ってたけど、こうやって並ぶと似てますね。嶋崎先輩と嶋崎」 「……ややこしいなぁ」 「しょうがないでしょ、苗字一緒なんだし。ていうか俺、結構嶋崎のこと丁寧に面倒見てたんすよ? 家で話題登ったりしませんでした?」 「うーん……二葉はあんまり、家で学校のこと話す子じゃなかったからなぁ」 「……兄さん、先輩の前で『子』ってのはやめてくれ」 「あ、ごめん……」  里斗はすっかり、一季にも砕けた口調である。すると、一季はまたぐっと前のめりになり、里斗に向かってこんなことを尋ねはじめた。 「あのさ、渡瀬くんは僕が大嫌いって言ってたけど……」 「ええ、まぁ、そうですね」 「その腹いせに、二葉につらくあたったりしてなかっただろうな。さっきから、二葉は君にビビってるように見えるんだけど」 「はぁ? 知りませんよ。ていうか、俺はあなたと違って公私混同しないタイプなんで。そんなつまんないことで後輩イビリなんてしませんし」 「ならいいんだけどさ……」  心配そうな一季の視線に負けたのか、二葉は咳払いをする。そして、「渡瀬先輩は強かったし、すごく厳しかったから、なんというか、畏怖の念を感じているいうか……」と、早口に言った。  そして二葉は黙り込み、里斗は無関心な顔で窓の外を見ている。そんな二人を見守る一季も戸惑いがちな表情で、その場が急にしんと沈黙に包まれた。  泉水は見かねて、ごほんと咳払いをした。 「二葉くん、高校んときから一季くんのこと心配しとったらしいんですよ」 「……え?」 「ちょっと、その頃の話聞かしてもろてたんです」   +  時間は、二時間ほど前に遡る。  一季を同窓会に送り出したあと、泉水はコーヒーを飲みながらぼんやりと考え事をしていた。  二階席の窓際は全面ガラス張りで、カウンター席になっている。ひとり客が窓の外を眺めていたり、ラップトップを開いていたり、音楽を聴いていたり……と、気ままに時間を過ごしている。  泉水もまた、その席の一つに腰を落ち着けていた。  ――仕事用のスーツ姿もええけど、今日みたいなちょっときれいめなスーツ姿の一季くんもええもんやなぁ……。髪とかもいつもよりちゃんとしてはったし、身だしなみも立ち居振る舞いも上品っていうか雅やかっていうか……ハァ〜〜ほんま麗しいわ……。  なんのことはない。つい先ほど手を振って別れたばかりの恋人の正装にうっとり惚れ惚れしてしまい、その余韻が冷めやらぬだけなのである。  ――あかん……心配になってきた……。そら、高校時代から一季くんはかわいかったやろうけど、お色気美人お兄さんに変貌を遂げた一季くんを見て、同級生らが変な気起こしたりせぇへんやろか……。絶対ナンパされまくりやん……大丈夫かいな……。一季くん優しいから、断わりきれへんでちょっと無茶して酒なんか飲んでもたら、エロスダダ漏れになってもて、どえらいことになるんちゃうか……? 「うーーーーん…………あかんわ、むっちゃ不安になってきた。どないしよ……俺の目ぇが届かへんところでお持ち帰りとかされてしもたらどないしよ……。やっぱ、門の前で待機しとったほうがええんちゃうかな……」 「……さん、塔真さん」 「そうやん。裏口とかあったら俺、見張れへんやん。……どうしよ、めっちゃ心配や。俺も同窓生装って潜入しよかな……。けど俺もう28やしな、無理かな……」 「塔真さん!」 「……えっ、え!? ふ、二葉くん!?」  ぽんと肩を叩かれ、振り返った泉水は仰天した。  先ほど別れたばかりの一季の弟・二葉が、背後に佇んでいたからだ。 「ど、ど、どないしたん!?」 「ここ、いいですか?」 「え!? あ、うん、どうぞ……」 「どうも」  二葉はコーヒーの入ったマグカップを泉水の隣に置き、スツールを引いた。感情の読めない二葉の顔を見つめつつ、泉水は一口コーヒーを飲む。  一体全体、ここへ何をしに来たのだろう。ひょっとして、『あなたのような童貞に兄を任せることはできません』と、交際反対を訴えに来たのではないか……? と不安がよぎる。  二葉はしばし黙ったまま、じっと道路を眺めていた。かと思うと、カップを持ち上げ、優美な動きでコーヒーを一口飲む。そして、改まった表情で泉水の方へ顔を向けた。 「一応、お話しておきたいことがあります」 「えっ、な、何でしょうか」  二葉はキビキビとした口調でそう言いながら、ぴんと背筋を伸ばした。その厳然たる口調には、司法に携わる者に相応しい威厳のようなものを感じさせられ、泉水の背筋も自然と伸びる。  二葉が高校受験を控えていた頃、一季の様子が激変した。  穏やかで、優しくて、母親よりも母性に溢れていた兄・一季が、急にふさぎ込むようになった時期がある。食欲は落ち、遅刻が増えて成績がガタ落ちし、二葉は兄の変化に気を病んでいたことがあるのだという。  二葉が高校へ入学し、一季は高校三年生になった。その頃兄はすでに落ち着きを取り戻しているように見えたが、時折ひどく物憂げな表情を浮かべる兄の姿に、二葉は人知れず気づいていた。今も何か問題を抱えているのではあるまいかと気にかかり、二葉は兄の姿を校内で探すようになっていた。ひょっとしたら、優しくたおやかな兄が、影で何者かにいじめでも受けているかもしれない——という不穏な仮説を、二葉は胸に抱いていたからだ。  だが兄は、家と違わず穏やかな微笑みを浮かべ、友人たちの中にいた。陸上部では華麗に宙を舞い、遠くから兄の姿を見てキャッキャと騒ぐ女子生徒たちを、幾度も目にした。  兄の高校生活を間近で見守り、夏が来る頃には、二葉はようやく安堵した。兄のそばに忍び寄る悪意のようなものは見つからなかったからだ。ほぼ兄のストーカーと化し、隙あらば兄の教室のそばをうろついていた甲斐があったというものである。  しかしそんな折、二葉は里斗に呼び出され、こんな忠告を受けた。 『嶋崎先輩を、小篠卓哉に近づけるな』と。   + 「ま、あの頃は嫉妬に燃えてましたから、善意の忠告ではなく、牽制の意味で口出ししただけなんですけどね」 と、里斗が口を挟む。しかし二葉は里斗の言葉など耳に入っていないといった様子でゲンドウポーズをとり、黙々とこう語った。 「小篠先輩は、カッコいいと女子達が騒ぎ立てる一方、性的に軽薄であるという噂がひっきりなしに囁かれる要注意人物でした。……僕はぴんときました。きっと、その男が、兄さんの貞操を脅かしているに違いないと。いや、もう脅かされてしまった後なのかもしれない……! 僕の目から見ても、兄さんは色香漂う美しい少年でした。その軽薄男が、あんなにも麗しい兄を見て放っておくわけがないと……!!」 「……うわマジキモい。嶋崎、相変わらずクソのつくブラコンだな」  二葉の熱弁を、里斗の冷ややかな一言がぶった斬る。すると二葉はしゅんとなってしまい、一季が慌てて慰めている。  その横で、泉水は難しい顔をしつつも、内心うんうんと派手に頷いていた。二葉が一季を心配する気持ちが分かりすぎて、願わくば自分がその場にいたかったと思わずにはいられないのである。 「そ、それで僕……今日の同窓会に、小篠先輩が来たらどうしようと思って……心配で。その時、塔真さんがわざわざ兄と一緒に会場へ行くと聞き、この人はどこまで兄の悩みを理解しているのだろうかと気になりました。ひょっとしたら、僕の知らない兄の真実を、塔真さんから聞き出せるかもと思っていたんです」 「二葉……そんなに、僕のことを心配してくれてたんだね……」 「うん……」  一季はやや泣きそうな表情になりながら、二葉の背中を優しく撫でている。泉水としては、溢れんばかりの麗しき兄弟愛に感動を禁じ得ないのだが、その感動に水を差すように、里斗がふんと鼻を鳴らした。

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