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第43話 安堵と興奮?〈泉水目線〉
「というか、先生と嶋崎、すごいタイミングで現れましたよね。ここからじゃ、中の様子は見えないのに」
と、里斗が泉水の方を見上げながらそう言った。泉水は頷く。
「そこの通りで、あの男がタクシーを降りるとこが見えたんや。二葉くんが教えてくれてな」
「へぇ、そうだったんですか」
二葉から話に聞いていた男がまさに目の前に現れた瞬間、頭の中が真っ赤に燃えるような感覚を覚えたのだ。赤いバラの花束を抱え、見るからに軽薄そうないでたちをしたその男……そいつが一季をいいようにしていたのかと思うと、吐き気がするほどの怒りを感じた。
そして気がつくと、泉水は店を飛び出していたのである。
しかもその男は、里斗がゲイであることを暴露したというではないか。部活動中にも、里斗をからかいに来た輩がたくさんいたらしい。里斗に投げつけられた心無い言葉や好奇の目線の数々は、そばで稽古に励んでいた二葉の心をも傷つけていたのだ。
「ふうん……そんな話まで、塔真先生にしちゃったんだ」
「す、すみません」
「そんなことが……」
と、一季もまた痛ましげに目を伏せるが、里斗はどこまでも淡々とした口調である。
「別に俺は平気だったですけどね。けど、嶋崎があんまり悲壮な顔してるから、教えてやったんです。『あいつのエッチが下手すぎて文句を言っちゃったから、こんなことになってるだけだ』『別にお前が心配するような大ごとじゃない』って」
「……でも、あれはひどかったと思います。それにそんな奴が、兄さんに目をつけているのかと思うと……もう、怖くて怖くて」
二葉は重たい溜息をついたあとに顔を上げ、成り行きを見守っている泉水のほうへ目をやった。二葉を労うように、泉水はゆっくりと頷いて見せる。
すると、テーブルの上に頬杖をつき、きゅるんとした目つきで泉水を見上げる里斗と目が合った。物言いたげなその瞳に、思わずサッと身構えてしまう。
「先生があいつ殴ってくれて、すごくスッキリしました。やっぱ塔真先生はカッコいいなぁ〜。マジで惚れそう」
「ちょ、渡瀬くん。先生には手を出さないって言ったろ」
「ええ〜いいじゃないですか。ひょっとしたら、いつかは俺にもチャンスが巡ってくるかもしれないし」
「もう、またそんなこと言って」
軽い口調でそんなことを言う里斗の本心は、恋愛の機微に鈍い泉水には到底推し量れるものではなかった。一季をからかって遊んでいるだけのようにも見えるし、それだけではないようにも見える。時折垣間見せる切なげな眼差しの意味が、泉水にははっきりとは分からない。
そうして思わせぶりな態度を取って、泉水の気を引こうとしているだけなのかもしれない。だが、あるいは……。
「……ごめん、渡瀬」
泉水は膝の上に手を置き、里斗に向かって小さく頭を下げた。
「えっ? な、なんですか?」
「今のセリフ、ただの冗談なんかもしれんけど……。俺は、一季くん以外の人と付き合うとか、考えられへんから。お前の気持ちには応えられへん。ごめんな」
「っ……」
一季が小さな声で「い、泉水さん……」と呟き、二葉が「ふぉ……」と妙な声を絞り出す。そして、里斗が小さく息を飲む音が、泉水の耳に届いていた。
しばしの沈黙の後、里斗が乾いた笑い声を立てた。泉水が顔を上げると、里斗は指先で目尻を拭いながら、さも可笑しげに笑っている。
「や、やだなぁ。なに真面目に受け取っちゃってんですか! 冗談に決まってるじゃないですか! もう、そういうのやめてくださいよ」
「……そ、そうやんな。すまん」
「先生はピュアすぎて、俺の手には負えませんよ。安心して下さい、からかっただけです」
「あ、あはは〜せやんな〜。俺、ほんまそういうの疎くて、あかんなぁ」
「ま、それが先生のいいところですけどね」
里斗は肩をすくめ、すっと椅子を引いて立ち上がった。そして今度は一季の方へ向き直り、普段通りの華やかな笑顔を見せている。
「僕はそろそろ帰ります。嶋崎先輩、塔真先生、また大学でお会いしましょう」
「あ、うん……。実家に帰るの?」
「いいえ。明日も朝から実験が入ってますから、このままアパートに戻ります。じゃ、僕はこれで」
そう言って、学生らしい態度できちんと一礼したあと、里斗はくるりと踵を返した。何となくすっきりしない気持ちを抱えつつ一季の横顔を窺ってみると、一季もまた気遣わしげな表情で、里斗が歩き去った方を見つめている。
「……渡瀬くん、一人で大丈夫かな」
「え?」
「僕、ちょっとそこまで見送って……」
と、立ち上がりかける一季を制して、二葉がすっと立ち上がった。
「僕が行くよ。兄さんも疲れてるだろ」
「あ……うん。ありがとう」
二葉は泉水にも軽く会釈をして、早足に里斗を追いかけて行く。
二人きりになると、一季はテーブルに肘をついて片手で顔を覆いつつ、長い長い溜息をついた。その背中にそっと手を添えると、ぴく、と一季の身体が揺れた。
「大丈夫ですか?」
と、泉水は一季を気遣った。一季は力無い眼差しを泉水に向けて、微笑みながら小さく頷く。
「はい、大丈夫です。なんか……泉水さんと二人になったら、急に、気が抜けて」
「……そうですか。ほな、もう家に帰ります? それとも、同窓会戻ったりとかしはりますか?」
「同窓会……か」
外はすっかり暗くなり、窓ガラスには店内の様子がはっきりと映っている。一季は何かを思案するようにしばらく窓の外へ目を向けていたが、ゆるゆると首を振り、泉水のほうへ向き直った。
「……帰りましょう。今日会った友人たちには、後日また連絡します」
「そうですか。……ほな、帰りましょか。結構時間早いから、三騎くんびっくりしはるかな」
「……いえ、そっちの家じゃなくて」
一季はしっとりと潤んだ瞳で、物言いたげに泉水を見上げた。その視線の孕む蠱惑的な空気に、泉水はピンと感じるものがった。ぞくぞくと全身が期待し、騒ぎ始める。
「あの……僕の部屋へ、戻りませんか。泉水さんと、二人きりになりたいです」
「………………えっ………………?」
――こっ、こ、この状況で……ふ、二人きりになりたいて…………そ、それって、それって…………?
先程までの緊張感から解放され、安堵しきっているせいか、一季の表情はいつにも増して無防備だった。甘えを含んだ眼差しで泉水を見つめる一季の姿は、筆舌に尽くし難いほどに妖艶で、愛らしく、泉水の心拍数が一気に急上昇していく。
――さ、さ、さ、誘われている……!!?? ひょっとして、今夜……今夜…………俺と一季くんは…………い、一線を、超えてまうん…………!!??
そんなことを閃いてしまうと、俄然泉水の呼吸は荒くなる。
家族のいる家では出来ないようなことをしようと思っているが故に、一季は自分の部屋へ戻ろうと言っているに違いないのだから…………。
目を血走らせ、ハァ……ハァ……とあやしい呼吸を繰り返している泉水の姿があまりに不気味だったのか、一季が怪訝そうに泉水を見上げている。
「泉水さん……? あの……大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫!! 大丈夫ですよ!! わっ……分かりました……! すぐ、タクシー捕まえに行きましょう!!」
「あ……はい。ありがとうございます」
安堵したように微笑む一季の笑顔にさえ、軽く勃起してしまう泉水である。
しゃちこばった動きでトレイを片付け、一季の背中に手を添えて、泉水はコーヒーショップを後にした。
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