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第8話 童貞の告白〈泉水目線〉
「抱きしめ……たい……?」
「えっ……あ……あー……その……」
「僕を、ですか……? それとも、過去にカレーを作ってくれた彼女さんか誰かのことを思い出して、その人が懐かしくなったとかで……」
「えぇ!? そ、そんなんちゃいます! 俺が抱きしめたい人は、嶋崎さんしかいませんよ!!」
「ひえ……」
勢い込んでそんなことを言い放った途端、一季の頬がりんごのように真っ赤になった。ついでにやや前傾姿勢になってしまったため、斜め向かいに座っていた一季に、ずずいと迫るような格好になっている。
突然距離を詰められて驚いているのか、一季がピクッと身体を震わせた。泉水は慌ててさっと身を引き、そして全力で説明する。
「あ、あの……! 抱きしめたいっていうても、そういう意味ちゃうくて! あの、分かってるんです、分かってるんですよ。嶋崎さんがせ……セッ……セックス(小声)をしたくないっていうのは、重々承知しとるし俺もそれでいいって思ってるんですけど……!!」
「は……はぁ」
「そ、そういういやらしい意味とちゃうくて……!! 嶋崎さんが笑うと、なんやもうむっちゃかわいいなって、むっちゃドキドキしてしもて……。なんていうかこう、全力でぎゅうっとしたくなるような気持ちになってまうって言うか……!」
「……僕が、笑うと?」
「物静かにしてはる嶋崎さんもきれいやけど、笑うとめっちゃかわいいから……! なんていうかその……は、ハグ!! ハグしたくなるんですわ!! エロい意味とちゃうんです! ほ、ほら、可愛い犬とか見たらぎゅっとしたくなりますやん! そういう意味って言うか……!」
「犬……」
「あああああ、へ、変な意味とちゃうくて……!! お、俺さっきから何を言うてんねやろ……すんません、ほんまに……」
――あー……終わった。嶋崎さん、完全にぽかーんとしてはるやん。「こいつマジ何言ってんだキモ」って顔したはるやんか……。だってそうやろ。俺かて俺みたいな男イヤやもん、キモいもん。挙動不審やし失礼なことばっか言うてまうし童貞やし……。そうやん、俺なんて、永久に童貞のまま死んだらええねん……。
己の不甲斐なさに心底恥じ入ってしまった泉水は、ずずーんと暗い影を背負って俯いてしまった。
しかし、ふと、あたたかなものが泉水の手の上にふわりと触れた。固く閉じていた目をそっと開くと、泉水のものよりも一回り小さな白い手が、拳の上に乗っている。
日に焼けた泉水の拳を覆う長い指はやや骨張っていて、どこからどう見ても男の手だ。そう、それは一季の……。
「手っ……え!? 手っ……あの……っ」
「いいですよ、ハグ、くらいなら」
「えっ……えっ? い、いいんですか……!?」
「はい、構いません」
「ほっ、ほんまですか!? キモくないんすか!? キモかったら全然、全然拒否ってくれたらいいんですよ!? だ、だって、俺みたいなむさ苦しいのにハグされるとか……!!」
「泉水さんは全然キモくなんてないですよ。それに、ぎゅっとしたいって言ってもらえたの、なんか……嬉しかったっていうか」
「ええええ……まじすか」
――天使? 天使なん? 嶋崎さんは男やのに、俺みたいなデカイ男にハグされようとしてんのに、『嬉しい』とか言うてくれはるなんて、普通考えられへんやん……。なんでこの人こんなに優しいん? やっぱ夢なん? もうすぐ三十路やのに童貞拗らせてる俺を慰めるために、神様が見せてくれてる幸せな夢なん……?
許可が下りただけで、天に召されそうになっている泉水である。一季の触れた場所だけがじんじんと熱くなりはじめ、ふるふると拳が震えてくる。
「ほ、ほんまにいいんですか……?」
「はい。あの、どうぞ……?」
そう言って、一季は気恥ずかしげな苦笑を浮かべつつ、軽く両手を広げた。まるで聖母だ。天から遣わされし慈愛の女神……と拝みたくなるのをぐっとこらえて、泉水はごくりと生唾を飲んだ。
「ほ、ほな……失礼して……」
と、泉水も一季に向き直る。……が、なかなか手を出すことができない。緊張と興奮のあまり身体が鋼鉄のように固まってしまい、一ミリ動かすだけでもギギギギと音がしそうだ。
さすがの一季も、ロボットのように固まっている泉水に戸惑いの眼差しを向けている。いたたまれない。
「そ、そんな緊張しないでくださいよ。僕まで緊張しちゃいます」
「そっ、そらそうですよね! は、は、ハグくらい、欧米じゃただの挨拶ですもんね!! ハグくらい……っ」
「いつも女性にするみたいに、普通にしてくださったらいいですし」
「そ、そっすよね〜〜!」
――……って、いつもも何も、俺は女性にこんなんしたことないっちゅうねんんんん!!
――し、しかし、両手広げて待っててくれる嶋崎さんをそのままにしておくことなどできひん!! 据え膳食わぬは男の恥!! うなれ俺の童貞力……!!
泉水はぐっと一季の腕を掴んだかと思うと、そのまま力任せに自分の方へと引き寄せた。すると、「わっ」と小さく声をあげ、一季が胸の中に倒れ込んでくる。
そしてそのまま、泉水は一季を力強く抱きしめた。
――あーーーー……うわぁ……あ……。
一季のしなやかな肉体が、今まさに腕の中にある。スポーツ以外で他者とこんなにも接近したことのなかった泉水は、しなだれかかる一季の重みを感じているだけで、それこそ昇天しそうなほどに感動(または興奮ともいう)していた。
――し、嶋崎さんが、俺の腕の中におる……ふ、ふおおおお、思ってたより細いし、あったかいし、ええ匂いやし……うおおおおお……っ!
恋する相手を抱きしめているという感動のあまり、泉水の腕に力が入る。気づけば馬鹿力でギュウギュウと一季を締め上げていることに、泉水はまだ気づいていない。
「く……苦し……っ」
「えっ?」
「くる、しい……いき、できない……」
「あっ……!! ご、ごめんなさい!!」
慌てて腕を離すと、一季はぐだりと泉水にもたれかかって青い顔だ。泉水も負けず劣らず真っ青になりながら、一季の背中をさすさすとさすった。
「すみません……! 俺、こういうの初めてで、力の加減が……」
「へ? は、初めて……?」
「……あっ」
――お、俺はまた、いらんことを……!!
今のはどこからどう聞いても、泉水が『童貞であるという事実』を示唆する失言だ。あまりの恥ずかしさに、真っ赤になっていいのか真っ青になっていいのか分からず、泉水は蝋人形のように固まったまま、怪訝そうな一季の目線に耐え忍ぶ。
「あ、初めてって、男性を抱きしめることが、ですよね。確かに女性と比べたら身体も硬いですし、ついつい力が入るのも分かる気が……」
「い、いやその……そうやなくて」
――あかん、もうあかん。もう隠せへん。隠し通せる自信がない……。
出会った日から、一季の前で散々挙動不審をひけらかしている自分が、これ以上、一季に何を隠し通せるというのか。それならばもう、恥をかなぐり捨てて全てを曝け出し、ドン引きされてしまうほうが楽だろう――……。
泉水は、心を決めた。
「違うんです……。そういうんとちゃうくて……」
「え?」
「ほんまに初めてなんです。誰かと……こんなふうにするの」
「……はぁ」
泉水はいよいよ腹を括って、大きく息を吸い、勢いよく言い放った。
「俺、童貞なんです!! ちゃんと人を好きになるのも初めてなんです! 身も心も童貞なんです!!」
「……えっ? うそ」
一季が、信じられないものを見るような目で、泉水のことを見つめている。羞恥のあまり、泉水はその眼差しを受け止めることができず、すっと正座をして目を伏せた。
――さぁ、蔑んでくれ、嘲笑ってくれ。丸裸になった俺を、思う存分貶めてくれ……!!
と、天の裁きを待つかのような心持ちで、ぐっときつく目を閉じる。
しかし泉水に与えられたのは嘲笑の裁きではなく、ふんわりとした温もりだった。
抱きしめられている。
しなやかな腕が泉水の首にしっかりと巻きつき、上半身が密着し、顔の横に一季の顔が……。
「えっ……!? し、し、嶋崎さん……!?」
「いきなり、ごめんなさい。嬉しくて……」
「へっ!? な、何がですか!? 俺、童貞なんですよ!? 嘲笑って馬鹿にしたっていいんですよ!?」
「そんなの、笑ったりしませんよ。いまどき、二十八歳で童貞なんて珍しいことじゃないですし。それに……」
「それに……?」
「僕もまだ、あなたに言えてないことがあるんです」
一季は腕の力を緩め、ほんの少しだけ身体を離した。不安げな表情をしている。
憂いのある美しい顔がこんなにも間近にあり、胸は高鳴る一方だ。だが、一季の表情はどこまでも真剣だ。浮かれている場合ではない。
ごくりと固唾を飲み、泉水は一季の言葉を待った。
「……僕、ゲイ、なんです。男の人しか好きになれない体質で……」
「えっ? あ、そ、そうなんですか?」
「そんな僕でもいいんですか? 気持ち悪く、ありませんか……?」
一目惚れの相手が一季な上に女性不信な泉水にとって、一季の言葉はなんら不快感を催すものではない。だが、一季はひどく物憂げな眼差しで、じっと泉水を見上げているのだ。
同性愛というものが、世間においてマイノリティであるということは知っている。だからこそ、一季がこんなにも不安げなのだろうということはすぐに分かった。
だが、出会った瞬間一季に溺れていた泉水にとって、それは大した問題ではない。性別の壁などとっくに飛び越えて、泉水は一季に惚れているのだから。
「全然、気持ち悪くなんてないです。むしろ、ホッとした……っていうか」
「ほ、ほんとですか?」
「そりゃ、そうっすよ。嶋崎さん、俺のこと気持ち悪くないんやろかって、ずっと気になってたから……」
「ぜ、全然、気持ち悪くないです! 僕も……すごくホッとしました。はぁー……よかった」
深い安堵のため息とともに、一季はかくんと俯いた。
一度にいろんなことが起きて脳内は軽くパニック状態だ。だが、一季にすぐ間近で見つめられ、しかもほんわりと優しく微笑みかけられてしまえば、泉水は歓喜のあまり再び昇天しそうになってしまう。心臓も早鐘を通り越し、もはや停止してしまいそうな勢いだ。胸が苦しい。
「ううっ……」
「こんな、僕なんかが初恋だなんて。そんなの、ほんとに嬉しすぎます」
「そ、そうですか?」
「そうですよ。泉水さんみたいに、かっこよくて、頭も良くて、紳士的で優しい人に、そんなふうに言ってもらえるなんて……信じられない。すごく嬉しい」
「あッ……」
キュッと左手を握り締められ、変な声が漏れてしまう。そのぬくもりに励まされ、泉水は恐る恐る右手を持ち上げて、一季の肩に触れてみた。
手の中やすやすと収まってしまう、ほっそりとした肩。掌に触れる柔らかなセーターの感触も、一季の匂いも、すぐそばにある美しい笑顔も、全て現実だ。夢などではない。
――童貞で、奥手で、ドヘタレな俺を、受け入れてくれるなんて。ほんまにこの人は……。
何だか急に、凝り固まっていたものがすべてほどけていくような気がした。泉水は一季の背中にゆっくりと腕を回し、力加減に細心の注意を払いながら、しなやかな背中をそっと抱き寄せた。
「はぁ……もう、めっちゃ好きです。ほんまに好き。ありがとう……」
「……ふふっ。そんな、お礼なんて」
「はぁ……めっちゃ幸せ。明日死ぬんちゃうかな……」
「ちょ、死なれたら困ります。せっかく、ちゃんと……話し合えたのに」
「お、おう、せやんな。ははっ」
「ほっとしたらお腹すいてきました。カレー、もっと食べますか?」
「食べる食べる。大盛りで頼みますわ」
「はい」
にっこりと微笑む一季の笑顔に、でれでれ〜と顔が緩んでしまう。ひどく締まりのない顔をしているのだろうと頭では分かっているが、今日ばかりは仕方がない。
泉水は一季と向かい合い、大盛りのカレーをぺろりと平らげたのであった。
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