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第9話 前向きな決意
「ふふ〜ん、ふ〜ん」
「あれっ、嶋崎さん。今日なんかめっちゃ機嫌よくねっすか?」
「へっ?」
「鼻歌なんか歌っちゃって、珍しいっすね〜。なんかいいことあったんですか?」
「は、鼻歌!? ご、ごめん……うるさくて」
「へ? 別にうるさくねーっすけど」
その日開催された入学式がつつがなく終了し、一季と田部は会場の片付けに駆り出されているところだ。
式典を滞りなく進めてゆくため、一季は教務課の職員として、会場の隅っこに控えていた。その時一季は、新任教官として就任したばかりの泉水が、壇上に立つ姿を見たのであった。
二人きりの時はいつも、しどろもどろで動きが怪しい泉水だが、今日はまるで様子が違った。
教育者として壇上に立ち、流暢に挨拶を述べる泉水の姿は、普段の姿が嘘のように堂々としていて、素晴らしく凛々しいものだったのである。
「いや〜、カッコよかったっすわ、塔真先生! 合コンしたら絶対あの人の一人勝ちっすよね。今度誘おっかな〜って思ってたけど、どーしよっかなぁ」
「えぇ? てかまた行くの!? いい相手が見つからなかったってこと?」
「そーなんすよぉ。聞いてくださいよ!! こないだは女子大生とやったんですけどぉ、みんな顔面偏差値は高かったけどもう性格がキツくてキツくて女狐かよって……」
田部の愚痴を片耳で聞きつつ、一季はまた泉水のことを考えていた。
ダークグレーのスーツに身を包み、姿勢良く壇上に立つ泉水の姿は、ステージの上でもひときわ目立っていた。前列の方に座っていた女子学生が、早速泉水に目をつけて、きゃっきゃっとざわつき始めていることにも、一季はちゃんと気づいていた。
キリッとした美形でありながら、優しさをまとわせる端正な顔立ち、堂々とした立ち居振る舞い、マイク乗りのいい低音の声、爽やかな笑顔、そしてあのモデルばりの体格の良さ……あれでモテるなという方がどうかしている。
昨今、工学部に進む女子学生は若干ながら増えているし、教務課の中でも泉水の格好良さは大評判。しかも泉水は、学会ではかなりの切れ者として有名な研究者であるらしく、あの若さで准教授という異例の出世スピードについても、かなり話題になっていた。
――まさかあの人が童貞だなんて、誰も思わないよな……。
「嶋崎さーん、聞いてますー?」
「えっ? あ、ああ、うん。大変だね、田部くんも」
「そーなんすよ! どこにいるんすかねー、俺の運命の相手」
「う、運命……? 田部くんて、意外とロマンティックなこと言うんだ」
「そっすか? あ、今度塔真先生にも女の子紹介してもらおっかな。年上の女子……」
「先生に、か。それはどうだろう……」
「しっかし、先生の経歴すごいっすよね〜! あんなに気さくで喋りやすい人なのに。モテる男は違うんすね〜」
「……だよねぇ」
数日前に目を通した、新任教師のリスト。
教務課の人間は、見ようと思えばいつでも閲覧できるデータだった。だが他の仕事が忙しくて、さらりとしか目を通していなかったのだ。
田部に「見てくださいよこれ〜!!」と勧められ、一季は初めて泉水の経歴をきちんと目にしたのである。
泉水は京都の国立大をストレートで卒業し、そのまま修士課程に進学。その頃からコンスタントに論文を発表し、学会でも若いうちから注目される研究者だったらしい。さらにそのまま博士課程に進学し、在学中から大学の講義を担当するなど、キャリアの積み方としては、かなり特異なコースを辿ってきたようだ。
泉水を指導していた担当教官もまた、業界ではかなり著名な人物だ。学会発表のみならず、行政や企業にも盛んに協力し、率先して様々な事業に知恵を貸していた。大学生のうちから、泉水はその教官にくっついてあちこちの現場を見てきたらしく、その経験が彼のキャリアの中に深く息づいているようだ。
そして英誠大学側の事情もまた、泉水にとっては幸運だった。
工学部建築学科は、昨年度二人の教授が退官(一人は早期退職)したため、国立大としては異例の二人公募がかかったのだ。工学部の教員はほほほほ六十代以上であるため、ここで一旦学部内の若返りを図りたいという意見が、教授会の中で出たのである。
そこで白羽の矢が立ったのが、塔真泉水だ。これまでの実績が認められ、五十人近い応募者の中から、最年少の泉水が選ばれたのだ。しかも与えられたポストは、講師ではなく准教授。大学で働き出して三年目という一季の目から見ても、泉水への待遇は破格であるということが分かる。
この大学は古くからの歴史を持つ名門校だが、教官に何よりも求められるのは実力である。古い体質にとらわれず、フレッシュな考え方をする教授陣が多いこともあり、泉水はめでたく英誠大で教鞭を取ることになったのだ。
――経歴だけ見てたら、すごいエリートじゃないか。よくここまで貞操を守りきれたよなぁ……。泉水さんは自分が童貞ってこと気にしてたけど、僕にとっては、勿体無いくらいの僥倖って感じだけど……。
これまで一季は、童貞という相手と巡り合ったことがない。バーで会う男たちは、誰も彼もネコの扱いに慣れていた。
慣れているが故に、一季への扱い方も粗雑であったような気がする。といっても、一季とて処女ではないので、相手の男も『慣れてんだろ? じゃ、サクッとやろーぜ』みたいなノリの男が多かった。
そこに感情はなくとも、やれることはやれてしまうのが男だ。顔形は端正な上、男を受け入れることには慣れている一季の尻は、そういう男たちにとって、性欲処理には都合のいいものであったことだろう。
だが、ただ突っ込まれて揺さぶられるだけのセックスでは、一季はまるで快感を得ることができなかった。
そういえば何度か、『開発マニア』を名乗る中年親父を相手にしたこともあった。
下を脱がされひっくり返されて、「きれいなアナルだね〜。え? これで処女じゃないの? へぇ〜こんなにピンクできれいなのに、使い込まれてるってことかぁ〜エロいなぁ〜」と舐めまわされ、「ここ、前立腺っていうんだよ。どう? 気持ちいでしょう? ハァハァ」といって指を突っ込まれ、「ここをね、男のちんぽでグイグイこすってもらうとね、すごく気持ちがいいんだって。……さぁ、試してみようか……!!」と、最終的にはセックスをしたけれど、まるで気持ちよくはなかった。
むしろ不快だった。脂ぎった指でアナルをこじ開けられ、ハァハァと生暖かい吐息を吹きかけられながら尻をいじくりまわされるのは、単なる不快でしかなかった。
男運がない、といえばそれまでだったのだろう。誰としていても気持ちよくはなかったし、相手の男たちも「反応薄いなぁ、気持ちよくないの? こないだヤッった子はイキまくりだったのに、萎えるなぁ」と文句を言われたり、「つまんねーなぁ。演技でもいいからもっと声出せよオラ!」と叱られたり、「オジサンのチンポ気持ちいいだろう!? 気持ちいいって言いなさい!!」と尻を叩かれたり……。
これからの人生を一人きりで生きねばならないのかと思うたび、時折無性に人肌恋しくなった。だから男に抱かれるためにゲイバーへ行ったり、出会い系を利用したりもした。
だが、そのたび感じるのは虚しさばかりだ。相手の男が興奮すればするほど、一季の心と身体は冷めていく。演技をすれば「嘘くさい」と怒られる。ひどい行為で泣かされたことも一度や二度ではないというのに、それでも、誰かの温もりが恋しくなる。
誰でもいい、誰でもいいから、ぬくもりを分けて欲しいと心が騒いで、また傷つく。その繰り返しだった。
でも、今の一季には泉水がいる。泉水はセックスに不慣れ(というか未経験)であるためか、セックスなしの清い関係を許容してくれる。しかも、本気で一季を好いてくれているようだ。
童貞と知り、嬉しくなったのは本当だ。泉水にとって、特別な存在になれるかもしれないと思えたから。
一目惚れだと言われ、抱きしめたくなるのだと熱く語られ、感じたことのない温かな気持ちに目頭が熱くなった。この人なら、いつまでも愛してくれるのではないか、穏やかな関係性を続けていくことができるのではないかと、期待に胸は膨らんだ。
抱き寄せられて、嬉しかった。裏表のないぬくもりに、とても素直な気持ちになれた。ゲイであることを否定せず、それでも一季のことを好きだと言ってくれた。
――泉水さんとなら、僕は、幸せになれるのかな……。
安堵を知ってしまったが故に、今度は、それを失うのが怖くなる。そばにいればいつか、泉水は一季の身体をも欲するかもしれない。その時、ちゃんとできるのかどうかが、不安で不安でしょうがない。
しかも泉水は童貞だ。初めてのセックスで、一季が無反応のマグロであったら、相当なショックを与えてしまうかもしれない。それこそ、今度は泉水がEDになってしまうほどの傷つきを与えてしまったら、一体どう責任を取ればいいというのか……。
――泉水さん、繊細だからなぁ……。初体験の相手がマグロとか最悪だよな……。僕は演技もダメダメだから、下手に「あん、あん、あん、いっちゃう〜」とかって偽物の喘ぎ声を出しても、傷つくだけだろうし……。
「はぁ……」
気づけば、また溜息をついている。が、一季はぶんぶんと首を振った。泉水との交際を豊かなものにするために、ネガティブな思考はやめにすると決めたのだから。
こうなったら、泉水のためにも、不感症を治す努力をせねばならない。そうすれば、泉水との未来が、より明るいものになるかもしれない。
泉水のためにも、やれることはやってみよう……!! と、いつになく熱い想いが胸の中に湧き上がり、一季はぐっと正面を向いた。
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