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第11話 人肌恋しくなる瞬間

 それから一週間。一季は新入生オリエンテーションにかかりきりだった。  英誠大には、泉水の所属する工学部を始め、文学部・教育学部・経済学部・社会学部・法学部・医学部・理学部・薬学部・農学部といった学部が揃っている。  新入生オリエンテーションにかかる日数は五日間。この期間中、それぞれの学部ごとに、健康診断・履修登録等にかかるガイダンス・奨学金につていの説明・懇親会などのプログラムを進めていくのが、一季らの仕事である。  メインイベントは懇親会だ。英誠大では毎年、大学からバスで二十分ほどの場所にある市民公園で、バーベキューをするのが恒例となっている。学生らの大半はまだ未成年であるためノンアルコールだが、開放的な青空の下で美味い食事を共にしながら、学生同士の交流を促していくのが目的だ。  教務課の職員も、毎回誰かがそのバーベキュー会場に入ることになっている。リーダーシップを取るのは二、三年生だが、裏方で彼らのサポートをしたり、新入生の質問に応じたりすることも役割として振られているのだ。若い一季はほぼ毎日のようにバーベキュー会場に駆り出されているため、日焼け痕がひりひりしてきた。  学部ごとにプログラムの日程は異なり、工学部のバーベキューは土曜日の午前中に開かれることになっていた。  それが今日だ。そして今日は、一季がオリエンテーションに関わる最後の仕事である。ようやく一仕事を終えられるため、一季の気分も朝から軽い。  数日前のアナニーをきっかけに、再びネガティブモードに陥りかけていた一季であるが、こうして忙しくしいると、色々なことを忘れていられるので気が楽だった。  新入生たちと関わり、新生活についての悩みに耳を傾け、必要な情報を提供する……今年で教務も三年目であるため、以前よりはスムーズに学生たちの質問を捌くことができている。新入生たちの安堵した表情を見るにつけ、一季の心も少しずつ浮上していくような気がした。  ワイシャツの袖をまくって軍手をし、軽く汗を流しながら作業していると、新入生と教授陣が公園に到着した。  案内役に立つ学生に連れられて、ぞろぞろとバーベキュー会場にやってきた団体の中に、一季は泉水の姿をすぐに見つけた。長身ゆえに目立っている、ということもあるが、美形は遠くから見ても実に美形だ。  泉水はすでに学生らに囲まれて、楽しげに会話を弾ませているようだ。見ると、泉水の周りにいるのは男子学生がほとんどである。数少ない女子学生は、遠巻きに泉水の方を見つめているだけだが、それでもきゃっきゃと楽しげだ。 「みなさーん、ちゅうもーく!」 と、実行委員長の三年生が声を上げ、ずらりと並んだ一年生らに懇親会についての説明を始めた。その後ろで、一季と田部はもくもくと炭を熾しては網を置く……という地味な動作を繰り返しているわけだが、泉水もすぐに一季の存在に気づいたらしい。ぱぁっと分かりやすく顔を輝かせ、小さく手を上げている。  ――あ……なんかすごく嬉しそう。今ちょっときゅんときた……。  こうして泉水の顔を直接見るのは久しぶりだ。一季自身が忙しかったこともあるが、泉水もまた教授らへの挨拶回りや学生らとの交流会、または来週から始まる講義の準備などで多忙であったらしく、気づけば連絡を取らないまま一週間が過ぎていた。  今日の泉水は、ノーネクタイのワイシャツの上に、スポーティなジャージを羽織っている。腕まくりをした袖口から覗く筋張った腕の男らしさであるとか、ジャージのおかげでいつもより若々しく見える泉水の姿に、一季は密かにどきどきと胸を高鳴らせていた。 「ようこそ英誠大学工学部へ〜! かんぱーい!!」  泉水に見惚れている間に懇親会はスタートしており、威勢のいい乾杯の音頭で、一季はハッと我に返る。慌てて仕事に戻りつつ、バーベキューコンロの周りに集まってくる学生たちに向かって、一季はにこやかに微笑みつつ挨拶をした。 「いや〜〜、今日もいい天気っすね!」 と、肉を焼く田部は気持ちよさそうな声を出しつつ、サングラスをすっと持ち上げ、カチューシャよろしく頭の上に乗せた。一季と違って日焼けしやすいたちなのか、それともサンオイルでも使っているのか、田部の顔はムラなくいい色に焼けていて、チャラさがぐっと加速している。  一応ワイシャツにスラックスという格好ではあるが、顔や髪型、そしてサングラスというアイテムがとにかくチャラい。そのせいか、まだまだ都会に不慣れな様子の学生たちは引き気味だ。 「こら、学生の前でグラサンは禁止って言ったろ」 「だって眩しいんですもん。てか、逆に嶋崎さんもかけません? 意外と似合うんじゃないっすかね」 「いや、逆にの意味が分かんないから。とにかくさっさと外す! 印象大事!」 「そ、そんな怒んなくってもいいのに……」  一季にピシリと注意され、田部はすごすごとサングラスをポケットにしまい込んだ。 「こんにちは、お二人さん」  泉水が一季と田部のそばへやって来た。久々に泉水の声を聞き、一季の心臓がどくんとひときわ大きく跳ねる。こんな初々しい気持ちになるのは何年ぶりだろう――と、一季は泉水の爽やかな笑顔に、そこはかとないときめきを感じていた。 「今日むっちゃ暑いのに、コンロのそばは大変でしょ。俺も手伝いますよ」 「えっ? いや、でも、先生にそんなことをさせるわけには……」 「いやいや何言うてはるんですか。嶋崎さん、めっちゃ汗かいてるし、顔も火照ってますよ? 日に当たりすぎてしんどいんちゃいますか?」 「あ、あー……ですね」  顔が火照っているのは日焼けだけのせいではないかもしれないが、今はそういうことにしておこう……と一季は思った。  促されるままトングを手渡すと、じゅうじゅうといい音を立てながら焼けている肉を、泉水は手際よくひっくり返していく。 「先生、手慣れてますね」 「そ、そうですか? 俺バーベキュー好きで、学生時代はちょくちょくやっとったから」 「へぇ、いいですね」 「あっ、そういえば今日……ですね。俺んちでいいですか?」 「ああ、飲み会のことですね。お邪魔でなければ、ぜひ」 「ぜんっぜん邪魔じゃないっす!! お、お、お待ちしてます……!!」 「はい、よろしくお願いします」  今日は田部が勝手にセッティングした飲み会の日である。  学生らに聞こえないように今日の段取りを話す泉水の横顔は、ものすごく楽しそうだ。そんな泉水の様子を見上げていると、一季の心までふわふわと浮ついてきてしまう。  学生たちに軽快に声をかけつつ、泉水は手際よく肉を焼き、「ほら食べや〜」「うまいで〜」と軽快に肉を配った。そんな泉水の調子に和んだのか、緊張気味な面持ちだった学生たちの表情も、朗らかなものへと変化していく。「なんかお祭りみたい」「てか先生、俺らが焼きますって」と学生らとの絡みも生まれ、その場の空気がとても明るくなり始めた。  そうして自然と人の輪の中心になる泉水に、尊敬と憧れに似た気持ちを感じるのと同時に、ふと、寂しさのようなものを感じてしまう。二人きりの時とはまるで違う顔を見せる泉水を見ていると、急にその存在を遠く感じてしまうような気がして、一季はやや戸惑った。    初恋の男との記憶が、一季の脳裏をかすめていく。 「嶋崎さんも食べてくださいね! ……嶋崎さん?」 「……へっ……?」  突然泉水に話しかけられ、一季は思わずぎょっとしてしまった。見上げる一季の顔を見て、泉水はふと怪訝な表情を浮かべた。そばにいる学生ら数名も、何事かと一季のことをじっと見ている。 「どうかしはったんですか? しんどい?」 「え……? あ、いえいえいえ! ちょっとぼうっとしてただけで」 「熱中症とちゃいますか? 冷やすもんとか……」 「いえ、僕は大丈夫です。ほら、学生さんが待ってますから」 「けど」 「み……水だけ飲んで来ますね。すみません、お任せしてしまって」 「いえ……」  学生らの手前、一季はにこやかな笑顔で泉水を制し、屋根のある日陰へと小走りに向かった。そこは荷物置き場兼休憩所になっていて、食材や飲み物の入ったクーラーボックスなどが積まれている場所である。  陽の当たらない涼しい場所にやって来てほっと安堵すると同時に、人前でおかしな動揺を見せてしまったことを恥ずかしく感じ、一季ははぁ……と溜息をついた。  ――どうもだめだな……。なんか最近、昔のことばかり思い出してる。……うう、しっかりしないと。 「まだ仕事中だなんだ。しゃきっとしないと……」 「嶋崎さん!! 大丈夫ですか!?」  ぐびぐびと水筒の水を飲み、己を叱咤していると、背後から泉水の声がした。一季は仰天してしまい、危うく水筒を取り落としそうになる。 「せ、先生……! こんなとこにまで……」 「熱中症やったらあかんから、様子見に来たんです。大丈夫ですか?」 「だ、大丈夫ですって。すみません、おさわがせ……」  泉水の掌が、一季の額に触れた。指の長い、大きな手だった。   一季の顔がやや火照っているせいか、泉水の掌をひんやりと感じた。それがとても心地よく、また同時に、気遣わしげに一季を見つめる泉水の眼差しに鼓動が跳ね、一季ははたと身動きをやめた。 「そこまで熱はないかな。スポーツドリンクあるんやったら、そっち飲んだ方がいいですよ。今は田部くんが向こう盛り上げてるし、ちょっとでも休憩した方が……」 「……っ……」  肌と肌が触れたことで、途端に気持ちが緩んでしまう。何だか妙に泣きたいような気分になりかけて、目の奥がじわっと熱くなる。  ――ぎゅってされたい……抱きしめて欲しい。あの日みたいに、強く……。  ――……って、い、いかんいかん!! 真昼間から、何考えてるんだ僕は……!! 「……す、すみません! 十分くらい休んでから、また合流しますので!」  一季は一歩身を引いて泉水から離れると、取り繕うように早口でそう言った。すると泉水ははっとしたように自分の手のひらを見下ろして、「あああああ!! すみません!! 急に馴れ馴れしく触ったりして、すみません!!!」と突然あたふたし始めた。 「す、すんません! し、し、下心とかないんです!! ちょ、ちょい熱あるんちゃうかな〜〜って、熱測ろうと思っただけで!! 別にスケベな気持ちで勝手に触ったわけと違うくて!! あの、だから、あの!!」 「い、いえ、嬉しかったです。お心遣い……」 「ほんまにすんません!! べ、べつに欲求不満とかそんなんちゃうんです!! ……って欲求不満て言うたらなんやおかしいけど、俺はほんまにそういうんとちゃうくって……って俺、なに言うてんねやろ……キモ、まじキモいで俺……はぁ……」 「あの」  いつものごとく猛省モードに突入しかけている泉水の腕に、一季はそっと触れてみた。すると泉水はビクウゥ!! っと全身を震わせて、まるで恐ろしいものを見るような眼差しで一季を見下ろした。  さっきまでは遠い人のように思えていたけれど、泉水はいつもの泉水なのだ。それにほっとしつつ、泉水を振り回してしまったことに、申し訳なさを感じてしまう。    なので今はきちんと、言葉で、一季の願望(きもち)を伝えてみることにした。 「心配してもらえて、嬉しかったです。なので、なんていうか……今すごく、ぎゅっとして欲しい気分っていうか……」 「……………………え?」  泉水が硬直した。  なんということだろう。まるで埴輪のようにぽかんとした顔だ。男前が台無しである。 「で、ででも、今はダメなんで!! また今度、機会があれば!! こないだみたいに、ぎゅっとやってくださるとありがたいというか!!」 「……………………ぎゅ…………?」 「あっ。さ、さぁ、戻りましょっか!! ほら、みんな、先生がいないと寂しいでしょうから!!」 「ぎゅっ…………って…………ぎゅ…………ぎゅ」 「行きましょう先生!! いっぱいお肉焼きましょうね!!」  壊れたからくり人形のように同じ言葉を繰り返す泉水の背中を押し、一季はバーベキュー会場へと立ち戻ったのであった。

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