12 / 71
第12話 淫夢と心配ごと〈泉水目線〉
そして夕方。
泉水はせかせかと部屋の掃除に勤しんでいた。新調したラグマットに粘着シートをコロコロしながら、埃を取っている最中だ。
だが泉水の手は、ひたすら同じ場所をコロコロしているだけである。
――ぎゅっとして、ぎゅっとして……ぎゅっとしていいん? 俺、こないだ嶋崎さんのこと窒息させようとしたばっかりやのに、あんなこと言うてくれはるなんて……もう、どんだけ天使やねん。優しすぎるやろ……。
あの日一季を抱きしめて以来、泉水はしばしば苦悶していた。一季にまつわるエロティックなイメージが頭から離れず、毎晩のように淫夢を見るのである。
根っからの童貞であるが、泉水とて男である。性欲もあれば自慰もする。これまでは、ちょっとでもエロスな雰囲気の漂う動画や画像を目にすれば、たやすく興奮できたため、その日のオカズに困ったことはなかった。
たが今はだめなのだ。一季のイメージでしかイけなくなった。『セックスは無理』と言われているにも関わらず、泉水の中で肥大してゆく一季の淫らなイメージは、もはやとどまるところを知らないのである。
夢の中の一季は、夜毎泉水を誘惑する。
はだけたワイシャツ一枚という格好で、『いずみさぁん♡ 今夜はナニして遊びましょうか♡』と女豹のポーズで迫ってきたり。
ベッドの上に寝そべって、自ら乳首を愛撫しながら、『ハァ……ぁん、きもちいぃ……♡ 泉水さんも、さわってみませんか……♡』と誘ってきたり。
ひらひらの裸エプロンでキッチンに立ち、帰宅した泉水に向かって微笑みかけ、『おかえりなさい♡ さぁ召し上がれ♡』と、白いお尻を向けてきたり……。
そんな夢を見た日は必ず、たっぷりと夢精している。二十八にもなって夢精だ。どろりと汚れたパンツを見るたび、泣きたくなった。
しかも淫夢で火照り切った身体は、夢精ごときでは収まりがつかないのだ。一季がいやらしく絡みついてくるイメージで、何度も何度もオナニーに励んでしまう。出しても出しても収まらず、うっかり遅刻しそうになったことも一度や二度ではない。
ただ、お色気たっぷりで迫り来る一季のイメージだけは豊富だが、夢の中の自分も現実と違わず紳士的なのかヘタレなのか、実際にセックスをするシーンは一切出てこない。どうせなら夢の中でくらい、もっと濃厚でいやらしいことをしてみたいところなのだが、夢の中でさえ、泉水は底抜けの童貞であるらしい。
だが、確実に二人の仲は進展している。
牛歩……いや、カタツムリののろのろ足よりもずっとじりじりした歩みだが、少しずつ、一季との間に絆が育ち始めているのを感じているのだ。
一季に手を握ってもらえた上、抱きしめてもらえて、お互いに言えていなかったことを話し合えた。一季からよそよしさが薄れ、少しずつだが、笑顔を見ることも増えてきた。
そして今日は、まさかの「ぎゅっとして♡」とのおねだりだ。どうしようおねだりをされてしまった。歓喜と興奮のあまり全思考が停止してしまうほど、一季からの言葉が嬉しかった。あの時鼻血を噴かなかった自分を、心から褒めてやりたい。
こうして距離が縮まっていくことは、何よりも幸せなことだ。今よりももっともっと親しくなれたら、これほど嬉しいことはないと思う。思うのだが……。
――はぁ……どないすんねん。これから先、二人っきりの時に「ぎゅっとして♡」とか言われたら俺、どうなってまうん? 死ぬん? 死ぬんちゃうか俺……。ていうか死ぬならまだええけど、俺ん中に潜む獰猛なチワワが目を覚まして、嶋崎さんに襲いかかってしもたら……俺、確実にフラれるやん!! 契約違反やん! セックスはなしっていう条件で嶋崎さんは俺と付き合ってくれてはんのに……!!
「……うう、それだけは嫌や……うう……どないしよ。俺、大丈夫かいな……」
泉水は延々と同じ場所をコロコロしながら、一人で派手に項垂れた。
――……ていうか、おいおいおいおい。ぎゅっとしてって言われたくらいで情けないやろ!! しゃんとせぇ俺!! 一回できたことなんやから、ぎゅっとするくらい余裕やん!! そうやん、たまには年上の余裕を見せて、「一季、おいで……(微笑)」くらいのことできなあかんやろ!! どうせ俺はチワワや! いきなりエロいことなんかできるわけないねん!! ぎゅっとするくらい、大丈夫や……大丈夫……!!
「ぎゅっとするくらい、いける……!! うん、いけるで……!!」
ぐっと拳を握り、泉水はひとり頷いた。
すると、つけっぱなしのテレビの中で番組が変り、泉水は慌てて時計を見た。もう十九時だ。二人が訪ねて来る時間である。
「あ、あかん。ええと、グラスやら皿やら、出しとかな……」
と、あたふた立ち上がったところで、ぴんぽーんとインターホンが鳴った。
泉水はすーーーーーはーーーーーと長い長い深呼吸をして居住まいを正し、意を決してドアを開く。
「いらっしゃい」
「どーも先生! おっ疲れっす〜!」
まず視界に飛び込んで来たのは田部だ。
身体にフィットしたタンクトップの上に、紫だの黄色だのオレンジだのが複雑に混じり合ったチェック柄の細身シャツを着て、下はあちこちに穴の空いたジーパンである。仕事時以上にとんがった革靴を履き、流れるようにセットされた頭にサングラスを乗せ、耳にはギラリとピアスが光る。どこのホストかと見紛うチャラさだ。
「田部くん……私服、めっちゃ派手やねんな」
「え? そーすか? てか中入っていいっすか? 嶋崎さんに色々買ってこいって命じられて、大荷物なんすよ」
「そんな大した量じゃないだろ。……すみません、先生。お邪魔します」
ド派手でチャラい田部の背後から、私服姿の一季が姿を見せた。
この間はアダルティな黒い服だったが、今日の一季は紺地に白のストライプの入ったカットソーを着ていた。爽やかさ極まるストライプ柄の服も、一季にはものすごく似合っている。まるで白い砂浜を軽やかに吹き抜ける、夏風のごとし爽やかさ。下は白いコットンパンツで、爽やかさに拍車をかける。しかも足元を軽くロールアップしているため、きゅっと尖ったくるぶしが見えてしまい…………泉水の鼻息が、俄然荒くなってゆく。
――あ、あしくび……細い……きれいや……。なんちゅうこっちゃ……足首まで美人とかありえへんやろ……あぁ、あかん……その尖ったくるぶし、もっと近くで見てみたい……触りたい、足首触りたい……。
「……んせ、先生ってば」
「…………んんんっ!? な、なに!?」
「先生、なにぼーっとしてんすか〜? ビールめっちゃ買ってきたんで、冷蔵庫入れてもいーっすか?」
「あ、ああ、あ、うん、もちろん!!」
「先生んちに、色々酒あるって聞いたんで、ビールしか買ってこなかったんすけど〜」
「あ、うん! 色々あんで!! 日本酒でも焼酎でもワインでも!! 何でも飲みや!」
「マジっすか〜? さっすが先生、太っ腹〜!」
と、チャラチャラしながらキッチンに入り、てきぱきとした動きでビールを冷やし、手慣れた動作でつまみ類を支度しはじめた。そんな田部の動きに、泉水は色々と衝撃を受けた。その手つきは、まるで良妻賢母の如しである。
「田部くん、飲み会の時とかすごく働くんですよ。去年の忘年会も鍋奉行してくれて」
と、ローテーブルの上に惣菜と割り箸などを並べながら、一季が柔らかく微笑んだ。一季が部屋にいるという時点でじわじわと高まりつつある興奮を、鋼の理性でなんとか押さえ込みつつ、泉水は引きつった笑みを浮かべた。
「そ、そうなんやぁ〜。人は見かけによらへんなぁ」
「あ、それちょー失礼っすから! てかうまそうっしょ、コレ〜! すぐそこのたっかいスーパーで買って来たんすよ〜」
「ごめんなぁ、色々と。いくらやった?」
「あー金はいーんすよ。今日は先生の歓迎会なんですから! 嶋崎さんのおごりっす!」
「えっ!? でも……」
「それにぃ、俺らにとっては打ち上げっぽい気分もあるんすよね〜。この一週間マジバーベキュー地獄だったっすから!」
「なるほどな。今週むっちゃ暑かったしなぁ……」
と、口にしてから、泉水は昼間のことを思い出し、一人で勝手に赤面した。
一季の潤んだ瞳、火照った頬、そして上目遣いの「ぎゅっとして♡」を思い出し、泉水はもう一度派手に深呼吸して己を律した。
「先生? 大丈夫ですか?」
と、テーブルの傍に膝をつき、ちゃっちゃと飲み会の準備をしながら、一季が泉水を覗き込んでいる。泉水はこくこくと何度も頷き、「だ、大丈夫!! 何でもないっす!」とごまかした。
「さ、んじゃ始めましょっか〜! まずはビールでいっすか〜?」
「あ、おう」
「じゃ、田部くん乾杯の音頭よろしく」
「はい喜んで〜〜!!」
一季に命ぜられた田部がすっくと立ち上がり、仁王立ちして缶ビールを掴んだ。
そして五分ほど合コンにまつわる悲しいエピソードを聞かされた後、ようやく飲み会が始まったのであった。
ともだちにシェアしよう!