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第13話 酔っ払いの……〈泉水目線〉
そして一時間ほどが経った。
英誠大学の教授陣のアレコレや、泉水が昔勤務していた大学の話で程よく盛り上がり、気持ちよく酔いが回り始めた頃。
……一季の様子が、何やらおかしくなりはじめた。
「そんで俺、その子は俺の運命だ〜っつって思ったんすけどぉ、結局全然相手にされてなかったっつうか……」
「……へぇ、君もいろいろ苦労してんねんなぁ」
「そーなんすよ!! やっぱ女って魔性っすよね……。すげ欲しい〜って言ってたバッグプレゼントしたら『たかひこクン大好き♡ 嬉しい〜! もうウチたかひこクンと付き合っちゃおっかなぁ♡』とかって超可愛い顔してほっぺにチューしてくれたのに、その子のインスタ見たら、なんかすげー派手な彼氏いました〜みたいなオチ? もう、こんなんばっかなんすよ!!」
「そうなんや。めっちゃ遊んでそうなのにな、君」
「えっ、そんなことないっすよ俺ちょー真面目ですもん。その子のことはマジ信じられそ〜って思ってたのに、裏では彼氏とちょーラブラブで!? こっちが浮気相手でしたかスンマセンみたいな!?」
「お、おう……」
「『たかひこくんといるとたのしい♡ またデートしようね♡』ってメールきた直後に堂々と彼氏とのキス写真とか上げちゃったりして!! あれ見た時の俺の気持ち分かってくれます!? 俺、もう……マジで泣きそ、」
「………………わかる…………」
酔いが進むごとに愚痴が溢れて来る田部の話を聞いていた泉水だが、すぐそばから、誰が発したものか分からないような超低音ボイスが聞こえて来た。ぎょっとして横を見ると、ゲンドウポーズを決め込んだ一季が石のように固まっている。泉水は思わず目を瞬いた。
「……え? 嶋崎さん? 今の声嶋崎さん?」
「…………浮気ってのはさぁ……許せないよなぁ…………。人の気持ち踏みにじっておいてさぁ…………あっちは全然平気なんだよ…………どういうことなんだろうなぁ…………」
「嶋崎さん? あの、大丈夫ですか?」
と、泉水が目の前で手を振ってみるも、一季はこれまでに見たことのないような虚ろな目つきで空を見据えたまま、じっと微動だにしないのだ。
「自分の欲を満たすためにさぁ…………八方美人に相手を振り回してさぁ…………んでこっちが本気になったらケロッとふってみたりしてさぁ…………ほんっと、なんなんだろうなぁ…………同じ人間として理解できない行動だよなぁ…………うん、クズだ。そんなやつは、ゴミ野郎なんだよなぁ…………」
いやに重みのある口調でそう言うと、一季はグラスに半分残っていた日本酒『越中鬼櫻』を一気飲みした。それは前の職場の送別会の時にもらった酒だ。ちなみに、アルコール度数は日本最強である。泉水は思わず中腰になった。
「ちょ、飲み過ぎ……」
「しまさきさ〜〜ん!! そーでしょ!? そうおもうでしょぉぉぉお!?」
泉水が一季のグラスを取り上げようとすると同時に、田部が突然身を乗り出して一季の両手をぎゅっと握った。そして目をウルウル……というか本気で涙を流しながら、田部はこんなことを言い始めた。
「しまさきさんがぁぁ、そんな、おれの味方になってくれるなんてぇ……ぐずっ……ちょーうれしいっす!! おれ、いっしょうづいていきまずぅ!!」
「…………こっちの純情弄ぶ相手なんてさぁ…………許せないよなぁ…………そんなやつ、こっちから願い下げなんだよなぁ…………。フられる前にフってやればよかったんだよなぁ…………」
「な、なるほど……!! フられる前にフってやればいいんすね……!! わっかりました、おれ、今からその女とこいって、お前みたいなクソビッチはこっちから願い下げなんだよって言ってやってきますぅぅ!!」
田部はぐいっとシャツの袖で涙を拭うと、バンと机に手をついて立ち上がり、やけにキリッとした顔で泉水を見た。目の前で突如始まった酔っ払い同士のやりとりについていけず、泉水がひとりポカンとしていると、田部はビシっとキレのある動きで敬礼をした。
「そーゆうわけなんでぇ!! 俺、行ってきます!! こっちからケジメつけてきまっす!!」
「……あ、うん……いってらっしゃい」
「嶋崎さん、ありがとうございました!! じゃ先生、俺はこれで!!」
「……う、うん……気ぃつけてな……」
うおおおお、と謎の咆哮を残して夜道に消えて行った田部を窓から見送ったあと、泉水はカラカラと窓を閉めてカーテンを引いた。そして、こわごわと後ろを振り返ってみる。
――おお……まだゲンドウポーズしたはるわ……。
田部の話では、一季はさほど酒に弱い方ではなかったということだが……。この一週間、春らしからぬ暑さの中、新入生たちを歓迎しまくった疲れのせいだろうか、一季はいつになく深く深く酔っぱらっているようだ。泉水はキッチンでミネラルウォターをグラスに注ぎ、そっと一季の目の前に置いた。
「嶋崎さん、ちょっと、酒はもうやめときましょ。水、飲んでくださいね」
「…………僕なんてさぁ…………どうせ、どうせおもしろみのない男だからさぁ…………つまんないって捨てられるのも慣れっこだけどさぁ…………でも、でも…………ううっ…………」
一季はそのまま目を覆い、ひくっひくっと肩を揺らして嗚咽を漏らし始めた。酔っぱらって管を巻き、直後に泣上戸の様相を呈し始めた一季の行動にも驚かされるばかりだが、それ以上に気になるのは、一季が口にした台詞である。
――浮気……されたってことなん? 純情捧げた相手に浮気された……っていう感じに聞こえてんけど。それって……。
初対面のあの日、一季がひどく寂しげだったこと。そして「ひとりでいたくない」という台詞の意味のはこのせいだったのかと、泉水はようやく腑に落ちた。
そして同時に、誰よりも何よりも大切な一季が、泉水のあずかり知らぬところで他の男に無下な扱いを受けていたのかと思うと、相手の男に対して激しい怒りを感じた。さらには、清らかで愛らしい一季を、恋人としてその手に抱いていた男が既に存在したという事実に、嫉妬心を揺さぶられる。
――……でも、そんなん、分かってたことや。こんなに美人でお色気たっぷりの嶋崎さんが、未経験なわけないって、分かってたことやもん。……でも、でも……。
これまでに感じたことのないどろどろとした黒い感情に戸惑いつつも、それに呑まれてはいけないと、自分を叱咤する。それに、今まさに傷ついているのは一季なのだ。この黒い感情をぶつけるあいては一季ではなく、一季にひどいことをした過去の男だ。
一季は今も、過去の傷つきから立ち直っていないのだ。だからこそ、酔って理性が失われた今、こうして涙を流すのだろう。泉水は苦々しい思いをぐっと腹の底へ抑え込むと、一季のそばに膝をつく。
「嶋崎さん……。つらい目に遭わはったんですね」
「っ……うぇえ、どうせ僕なんて……っ……僕なんて……」
「……僕なんて、なんて言わんといてくださいよ。俺は……」
おずおずと手を伸ばし、泉水は一季の肩に触れてみた。泣いているせいかアルコールのせいか、一季の身体は驚くほどに熱く火照っている。嗚咽を漏らすたびに震える肩の細さに、たまらない気持ちになった。
泉水はごくりと息を飲み、ぎゅっとその肩を握り込む。そしてそっと、自分の方へと抱き寄せてみた。
――慰めたい。嶋崎さんを慰めてあげたいんや……!! フゥ…………落ち着け俺…………しゃんとせぇ、俺……!!
力なくしなだれかかってくる一季の身体を正面から抱いてみると、震える両手が泉水のシャツに縋りついてきた。そして一季は泉水の胸元に顔を押し付けながら、くぐもった声でこう言い続けた。
「うえっ……ううっ……だって、僕なんて、僕なんて、どうせっ……ひぐっ……どうせ、」
「どうせなんて、言わんでいいんです。嶋崎さんが悪いんとちゃう。相手の男に見る目がなかっただけや。だって、嶋崎さんはこんなに、か、かわ、かわわ……」
「だって、僕なんて……!! どうがんばったってマグロだから……ッ……!!」
「え?」
――鮪 ?
泉水の脳内で、高級寿司ネタとして有名な回遊魚の姿が、ぐるぐると泳ぎ回る。
一季が何を言っているのか意味を把握しかねていると、一季はさらにおいおい激しく泣きながら、泉水のシャツをぎゅうっと握りしめた。
「ぼくはどうせ……っ……うぐぅっ……マグロだよぉ……っ……! だから誰にも愛してもらえないんだ……!! うぐぇっ……ぼくがもっと、うまくできたら、ひぐっ……こんな、惨めな思いなんて……っ……ううっ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! お、俺は! 嶋崎さんが鮪 だろうが鰤 だろうが、全然気にしませんから! 嶋崎さんのこと、丸ごと全部大事にしたいって思ってますから!!」
泉水のその言葉に、一季がゆるゆると顔を上げた。
泉水を見上げる一季の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。悲壮な形相で嗚咽を漏らし、子どものように泣きじゃくる一季の姿も、泉水にとってはただただ愛おしいものでしかない。だがさっきから、一季が血を吐くように叫んでいる台詞の意味がよく分からない……。
だが、ここで間抜けなことはしたくない。泉水は、ひたとこちらを見つめる一季の眼差しを、真っ赤になりながら受け止める。何だか、そこはかとなくいい雰囲気だ。このままキスでもできたら最高の流れなのではないか……!? と思ったが、意気地と経験値のなさすぎる泉水は、ただただ一季を抱いていることしかできないのである。
そして、しばしの沈黙の後。
一季の両目から、また滝のような涙が溢れた。
「えっ、あ、あのっ」
「うわぁああん!! そんな、いまはそんな優しいこと言ってたって、どうせ、どうせ!! いずみさんだってぇっ……ひぐっ……僕とエッチしたら、僕のこと嫌いになるに決まってるんだ……!!」
「えっ……エッ……!? えっち……!? えっちって……え、えッ!?」
突然性的な単語が一季の口から飛び出したものだから、泉水は震えるほど仰天してしまった。どうやら一季は、酔って混乱しているがゆえに、回遊魚の話をしていた……というわけではないらしい。
泉水はようやく、マグロの正しい意味を、理解した。
「僕なんてどうせ、どうせマグロだっ!! 抱いたって全然おもしろくないんだ!! だって、気持ちよくないんだからしょうがないじゃん!! いずみさんだって、ぜったい……、ぜったいおもしろくない! がっかりして、僕のことなんて捨てていくに決まってるよ!!」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! えっ……ち(超小声)って……あの、嶋崎さん、それって、あの、」
「いずみさんは童貞だからぁっ……!! 初めてがマグロとかかわいそすぎて僕が泣きそうなんですよ!! うわああ」
「童貞って……そんなはっきり言われれるとへこむ……」
「うぇええっ……なんで、どうしてぼくはマグロなんだ……っ……ひっぐ……なんで……ッ……」
一季は再びしおしおと大人しくなると、泉水の胸をしとしとと熱い涙で濡らした。
その場が静かになったことで、ようやく現状への理解が追いつき始めた泉水である。つまり一季の悩みとは……。
――マグロって、そっち……。嶋崎さん、せやから『セックスはなしで』って言ってはったんや。
腕の中で肩を震わせる一季の肩を抱きしめながら、まずは自分が落ち着かねばと、泉水は長い長い深呼吸をした。
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