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第15話 初恋の傷跡
「僕……不感症、っていうか……。セックスが、気持ちいいと思えないみたいで」
「不感症……ですか」
「はい。……一般的には、女性の問題なんですけどね。僕は男だし、セックスに使う場所も、女性とは違う。だから不感症っていう名前が当てはまるのかは分からないんですけど」
「……」
一季は話しながら、ちらっと泉水の様子を窺った。
泉水は童貞な上にかなり純情な男だ。いきなりこんな話をされて、さぞやドン引きしているに違いない……と思っていたが、泉水の表情はどこまでも真面目なものだった。
「それやったら、病院でどうにかなる……ってわけじゃなさそうですね」
「あ、はい……。ホルモン剤を使って感度を上げる方法はあるみたいだけど、そういうものを使うのは怖くて、試したことはないんです」
「……確かに、怖いですね」
「はい……。この間調べた内容だと、その……僕のアナルは、性器として未成熟っていうか……あ、アナルって分かりますか?」
「ふぐぅ……」
これまで真面目な顔で話を聞いていた泉水であるが、『アナル』だの『性器』だのという単語はさすがに刺激が強すぎたらしく、口元を押さえてふらりと前のめりになってしまった。一季はぎょっとして、「……あっ、そんな言い方しない方がよかったですか!? お、お、お尻の穴……っ、いや、直腸とか言った方がマイルドだったかな……」とフォローを入れようと試みた。だが泉水はゆるゆると首を振り、片手を上げて一季を制する。
「だ、大丈夫……です。それくらいは……知識として……」
「そうですか……」
「つ、続けてください……。お気遣いなく……」
「あ、はい……」
泉水がミネラルウォーターをがぶ飲みしている様子を見守ったあと、一季は一つ咳払いをして、再び話し始めた。
「僕、自分でその……後ろを使って、自慰をしたことがあまりなかったもので。だからその……性的な快感を得るための準備ができてないのかなと思って、自分で練習してみたりもしたんですけど……」
「うしろ……じい…………なるほど」
「はい……。でも、試してみたけど、なんだかダメで」
「そ、そうなんすか……」
「それで……結局最後に思い当たるのは、メンタルな部分といいますか。過去の経験のせいで、セックスを楽しむことができないんだなぁっていうところに、ぶち当たるというか」
「過去の経験? さっき言わはった、浮気のこと……とかですか?」
「いえ……もっと昔のこと、かな」
「ま、まさか……だ、誰かに無理やり襲われたとか……!?」
「襲われた……っていうわけじゃないんですけど……」
一季は迷った。
一季を『初恋』だと言ってくれている泉水に、一季自身の『初恋』にまつわる話をすることが、残酷なことではないだろうかと。だが、誰にも話すことができなかったあの時の経験こそが、一季の不感症の根源だという確信はある。
これまではずっと、過去から逃げることばかり考えていた。つらかった経験には蓋をして、忘れようとばかりしていた。
新たな経験で過去を塗り替えてしまおう。なかったことにしてしまえばいい……そう思って、闇雲に男を求めた。つらい過去に不快なセックスを上塗りして、必死で見ないようにしてきただけ。
だが、泉水と出会ってから、再びあの日のことを夢に見るようになった。顔を背け続けるだけでは、過去から逃れられないのだということに気付かされたのだ。
でも、それを泉水に話していいのだろうか。泉水は純粋で、無垢な男だ。ひょっとしたら、一季以上に傷ついてしまうのではないだろうか、という不安が胸を占め、一季はふと黙り込んでしまった。
「嶋崎さん?」
不意に肩に添えられた、大きな手。一季ははっとして顔を上げた。見つめる先には、泉水の凛々しい瞳がある。一季の迷いが通じていたのか、泉水はさっきよりもずっと、腹の据わった目つきをしていた。泉水は本当に、一季の問題と向き合う気でいる……そんな覚悟のようなものが伝わって来る、真摯な眼差しだった。
「俺、大丈夫ですから。吐き出せることは全部、吐き出してみてください」
「……は、はい……」
その眼差しに力をもらえたような気がする。
一季は、意を決するように一つ溜息をついたあと、初恋にまつわる出来事について、話し始めた。
+
初めてのセックスの相手は、高校の同級生。
小篠 卓哉という名の少年だった。
一季にとって、初恋の男である。
卓哉は、サッカー部に所属していたスポーツマンだ。部のエースでありながら、同時に生徒会長を務めるという有能な男だった。
中学から同じ学校へ通っていたと言うこともあり、何度か同じクラスになったこともある。だが高校二年生になるまで、あまり言葉を交わしたことはなかった。
卓哉は明るく華やかで、常にクラスの中心にいるような少年だった。だが、おとなしい一季は、そんな卓哉を遠くから眺めるだけ。
男らしくて、頼もしい卓哉。
一季にないものを全て持っている、眩しい存在だった。そんな彼に、ずっとずっと憧れていた。
小麦色の肌にくっきりとした目鼻立ちが爽やかで、グラウンドを走る姿には華があった。時折目が合うだけで有頂天になってしまうほど、一季は卓哉が好きだった。
一季は陸上部に所属していたため、グラウンドで活躍する卓哉の姿を、しばしば目にする機会はあった。色鮮やかなユニフォームを身にまとい、巧みな技でボールを操る卓哉の姿に、ついついうっとり見惚れてしまい、何度か怪訝な顔をされたこともあった。
――嶋崎ってさ、俺のこと好きなの?
たまたま日直が一緒だった日の放課後、卓哉にそう問われた。緊張していた上にそんな言葉を投げかけられ、驚きのあまり、一季はなにも言えなかった。
その沈黙を肯定と受け取ったのか、卓哉は「ふーん、そうなんだ……へぇ」と呟きながら、一季の全身をじっと見つめた。そして、戸惑っている一季に、「いいよ、付き合っても」と言ったのだ。
それから一ヶ月ほどの間は、まさに人生の絶頂期かというほどに幸せだった。
二人の関係はもちろん秘密だ。『このことは、絶対誰にも言うなよ』と言われていたが、一季ももちろんそのつもりだった。
卓哉と密やかに視線を交わし、秘密を共有することに喜びを感じた。そういう甘酸っぱい時期は、すごくすごく、幸せを感じることができたのに……。
交際を始めてから一ヶ月ほどが経った、とある夏の日。卓哉は、一季の身体を求めて来た。
親が旅行に出ていて不在だからと、卓哉の家で一緒に花火を見る約束をしていた日のことだ。
花火を見るためにと暗くしていた部屋で、いきなり床に押し倒された。一季を見つめる卓哉の猛々しい眼差しに、ときめくどころか胸が冷たくなったことを覚えている。
普段の卓哉とは全然違う、男の顔をしていた。
待ってと頼んでも、無理だと言われた。「俺はこんなにお前が好きなんだ。だから、いいよな? お前だってしたいだろ?」と低い声で凄まれた。抵抗すると卓哉の手つきは乱暴になり、「俺のことが嫌いなのかよ」と押さえつけられ、一季は、その行為を受け入れる以外の選択肢を与えられなかった。
強引に押し付けられる唇、無遠慮に挿入される舌。それが初めてのキスだった。あっという間に着衣を抜かれ、硬いフローリングの床の上で素肌を晒した。
一季の白い肌に、卓哉は興奮気味にむしゃぶりついてきた。まるで他人に犯されているような気分で、怖くて怖くてたまらなくて、一季はその行為をまるで気持ちいいとは思えなかった。
無言のまま指で貫かれ、あまりの痛みに唇を噛んだ。「もっと力抜けよ」「こんなんじゃ入んねーだろ」と苛立たちをぶつけられた。ただただこの行為が終わることのみを願いながら、一季は必死で浅い呼吸をし、強張る身体を必死で律した。
そして挿入された、卓哉の硬い雄芯。身を千切られるような痛みと、息が止まりそうになるほどの圧迫感が、一季の全身を支配していた。
一季の目からは涙が溢れた。抽送されるたび、肌という肌が粟立った。内臓を抉られる不快な感覚に全身が侵されて、冷や汗すらかいていた。両手で口を押さえ、ただただ早く終われと念じながら揺さぶられているうち、卓哉はようやく、一季の中で射精した。一応コンドームとローションは利用していたけれど、念入りに解すでもなく行為を押し付けられた初めての身体には、かなりの痛みが残っていた。
ぐったりと倒れ込む一季を見下ろし、卓哉はコンドームを外しながらこう言った。
冷ややかな声で、たった一言。
『何泣いてんの? せっかく抱いてやったのに』と。
「そんな顔してんじゃねーよ。これじゃ俺がレイプしたみたいじゃん」
卓哉は苛立った口調でそう言うや、ひとりでさっさとシャワーを浴びに行ってしまった。
素っ裸で、冷たい床の上に取り残され、一季は茫然自失の状態のまま、空に打ち上がる花火を見上げていた。
その後も、何度も何度も同じことをされた。
行為自体には慣れて来て、痛みを感じることはなくなった。しかしその頃には、卓哉が一季から関心を失い始めている様子が、手に取るように伝わって来た。
学校で、卓哉が一季を見ることはなくなった。ただ、セックスをしたい時だけ連絡をよこす。ひどいときは学校のトイレでも。あろうことか、サッカー部の部室でも。
あんなに好きだった相手なのに、その頃にはもう、自分の感情がよく分からなくなっていた。卓哉のことが好きだから、こんなことをしているのか。それとも、ただ卓哉に捨てられたくないから、こんなことをしているだけなのか。
虚しくて、悲しくてたまらなかったけど、それでも自分を必要としてもらえているような気がして、拒絶できなかった。それが良くなかったのだろう。されるがままになりながら、時が過ぎることだけを願っている一季に、卓哉はつまらなそうにこう言った。
「お前、もういいわ。ヤっててもつまんないし」と。
そしてその直後、卓哉はごくごく普通に、女子生徒と交際を始めた。仲睦まじそうに通学路を歩く二人の後ろ姿を、一季はただ見ていることしかできなかった。
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