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第16話 欲しかったもの

「……とまぁ、そんなことがありまして……」  苦い過去の体験を話し終え、一季はようやく、深く息を吐いた。話をしている間ずっと、うまく呼吸ができていなかったような気がする。  泉水には生々しすぎる内容だったかもしれないと思うけれど、あの時のことをうまく脚色し、マイルドに伝えるといった器用なことは、一季にはまだできない。こうして人に話して聞かせること自体も、一季にとっては初めてのことだから。  ちら……と目線を上げて泉水のほうを見上げてみる。すると泉水は、これまでに見たことがないくらい険しい表情で、じっと床を見据えていた。きつく眉根を寄せ、ラグマットを射抜きそうなほどに鋭い目つきで表情を固まらせている泉水のようすに、一季は思わずぎょっとしてしまった。想像以上にショックを与えてしまったのだろうかと。 「い、泉水さん……?」 「……あっ。は……はい」  こわごわ声をかけると、泉水ははっとしたように肩を揺らし、一季のほうへ目線を向けた。ようやく二、三度瞬きをした泉水は、ぎゅ、と唇を噛み締めている。 「あの、だ、大丈夫ですか? こんな話、聞かせちゃって……すみませ、」  思わず謝りかけたところで、ぐいと強く抱き寄せられた。過去を語るうちすっかり冷え切ってしまった身体を、すっぽりと包み込まれる。  奥手な泉水が突然そんなことをしてきたことに、一季はかなり驚いたけれど、そうして抱きしめてもらえていると、ここが現実(いま)なのだと実感できるような気がした。あの時のことを話すうち、過去へと沈み込みそうになっていた身体ごと、しっかりと抱き留めてもらえているような気がした。  泉水の肩口に頬を寄せる。泉水のシャツは、さっき一季が流した涙のせいで湿っている。こうして涙を受け止めてくれる泉水の存在に、救われる想いがした。だが、泉水は苦しげな溜息をついている。 「あの……」 「嶋崎さんが謝ることなんて何もないですよ。……色々言いたいことはあるけど……ただ、俺は、その相手の男を一発殴りたい」 「……な、殴る?」 「そらそうでしょ! 俺の嶋崎さんに……そんな……そんなひどいことしよって……!! ほんっまに、何やねん、ほんま……っ」  泉水はそう言って、さらに強く一季を掻き抱いた。怒りのせいか、泉水の身体が、小刻みに震えている。泉水がこんなにも激怒していることに戸惑いを覚えつつ、一季はもぞりと身じろぎをして泉水の顔を見上げた。 「あ、あの……そんなに怒らなくてもいいですよ? 僕はもう、平気ですから……」 「全っ然、平気とちゃうでしょ。平気になれるわけないですやん!」 「へっ……」  不意に語調を強めた泉水の反応に、一季はやや目を見開いた。泉水は一季以上に苦しげな表情でじっと一季を見つめながら、様々な感情を押さえ込んだかのような静かな声で、こう言った。 「不感症になってまうほど傷ついてんのに、ずっと……ずっと一人で、我慢してたんでしょ?」 「……あ……」 「大丈夫じゃないから、今でも泣いてしまうんでしょ? 悲しくて、怖くて、痛かったことを今も身体が覚えてるから、無条件に身体が竦んで、誰としてても気持ちよくなれへん。……そういうことなんですよね」 「……」 「好きやっていう気持ちを踏みにじられて、無理やりひどいことされて……。そんなん、平気でいられるわけないやないですか」  ひたむきで熱い泉水の眼差しが、一季の揺れる瞳をまっすぐに射抜く。  どくん、と一季の心臓が、これまでになく大きく跳ねた。 「泉水さん……」 「……しんどかったでしょ、ほんまに。ひとりで耐えて、悩んで」 「……」 「もう、一人で頑張らんといてください。頼りないかもしれへんけど……これからは俺が、あなたのそばにいますから」 「っ……」  泉水が口にするその言葉の一つ一つが、一季の胸に染み込んでいく。  これまでずっと、過去に囚われ、暗く寒い場所で縮こまっていた心が、ようやく息を吹き返してゆくように感じた。  堰を切ったように流れ出す熱い涙が、一季の白い頬を濡らしていく。 「っ……う……」 「俺は、あなたが好きです。傷ついたこと全部忘れられるくらい、絶対、大事にします」 「うぇっ……いずみさん……えぐっ……ううっ……」  泉水に縋って、一季はしばらく、声を上げて泣いた。子どものように、泣きじゃくった。  そんな一季の身体を、泉水は抱きしめて離さなかった。嗚咽に震える一季の背中を、ずっと優しく撫でていてくれた。  一人でさめざめと泣いてしまうことは何度もあったが、こうして誰かに涙を受け止めてもらうのは初めてのことだ。包み込まれる安堵感の中、一季は胸がすくまで涙を流した。  そうしてひとしきり泣いたあと、一季は心に凝った感情を噛み砕くように、訥々と語り始める。 「……とても怖かったんです。でも、抵抗できなくて……、捨てられるのが怖くて、何もできない自分がすごくすごく、情けなかった」 「情けないなんて……」 「何も感じない自分のほうがおかしいんだって、だからひどくされるんだって……。全部僕のせいなんだと思うと、何も、言えなかったんです」 「違う。嶋崎さんは、なんも悪くない。こういうことって、どっちかが一方的に押し付けるもんと違うでしょ。その男のやったことは、ただの暴力や。嶋崎さんが、自分を責める必要なんてない」 「……そう、なのかな……?」 「そうですよ」  泉水は強い語調で、迷いなくそう言い切った。一季はゆっくりと目を開き、力の入らない瞳で泉水を見上げる。  気遣わしげに一季を見つめる泉水の優しい眼差しに、赦されたような気持ちになった。その真摯な眼差しが頼もしく、胸がどきどきと高鳴ってゆく。 「俺……何でもします。嶋崎さんの中に残ってるつらい気持ちが、少しでも楽になるように」 「あ……ありがとうございます……ほんとに」  一季はそっと泉水に身を擦り寄せて、ぐすんと鼻を大きくすすった。  何年か分の涙を流し切り、すっかりからっぽになってしまった一季の心に、今改めて泉水の愛情が染み込んで来るような気がする。  泣きまくったおかげで顔は熱いし、鼻はグズグズだし、泉水のシャツは酷い有様だが、その心はいつになく軽い。    一季が陶然と泉水を見上げていると、泉水は何やら我に返ったような表情になり、ぽっと頬を真っ赤に染めた。そして一季の両腕を掴み、さっと少し身体を離す。 「あっ……!! す、すみません。さっきからベタベタベタベタしっぱなしで……!! し、しかも、童貞のくせにえらそうなことばっかり言うて……!!」 「へ……? いえ、そんな。僕、嬉しかったです。泉水さんが言ってくれたこと……」 「ほ、ほんとですか……?」 「はい、すごく」  手の甲で涙を拭いつつ微笑むと、泉水は頬をさらに紅潮させ、凛々しい顔をふにゃりと緩めた。そして気恥ずかしげにうなじを掻きつつ、「……よかった」と呟いている。  こういう、いつも通りの泉水の顔を見ていると、胸の奥がむずむずとくすぐったいような気持ちになる。  かっこいいのに可愛くて、照れ屋で奥手で、誠実な泉水。  照れ臭そうに笑う泉水の顔を見ているだけで、一季もすごく、幸せな気持ちになるのだ。 「……ずっと言えてなかったことなんですけど」 「えっ……!? な、何ですか!? 他にも何か、つらいことが……!?」 「いえ、そうじゃなくて……」  一季はもう一度軽く鼻をすすり、すっと膝立ちになった。  そして、ラグマットの上にあぐらをかいている泉水の肩に手を添えて、ちゅっとその頬にキスをする。そしてすぐにまた身を引いて、一季はその場に正座した。 「す、好きです」 「……………………え?」 「ぼ、僕からは一度も、きちんとお伝えしていなかったなと思って……。あ、あの……好きです、すごく。泉水さんのこと……」 「………………えっ、あっ、ちゅ? あっ……好きっ……て、あっ……きす……」 「ご、ごめんなさい。僕も、ちゃんと誰かに告白するの初めてで……。全然、かっこつかないですね。あは……」 「……ふぐぅ……」  照れ臭さのあまり、一季はへらっと笑いながら頭を掻いた。すると泉水は毎度のように口元を押さえてふらりと前のめりになり、慌てて手をついて身体を支えている。 「あっ、泉水さん……!」 「すんません…………嬉しすぎて…………めまいが」 「め、めまい? 大丈夫ですか?!」 「だ、だ、大丈夫なんですけど…………どないしょ……ほっぺにチューからの告白とか……あかん、あぁもう、あかんわ……なんでそんなかわいいことばっかするん……?」 「え?」 「あっ…………また心の声が漏れてもた……」 「心の声って、あははっ」  ひとりで百面相している泉水の姿に心が和み、自然と笑みが溢れてきた。  泉水といると、胸がほっこりあたたかい。一季に性関係を急くわけでもなく、純真に好意を伝えてくれる泉水の存在に、いったいどれほどの救いと癒しをもらっただろう。  痛みを伴う初恋を経験して以来、セックスを媒介にしなければ、一季は人と繋がることができなかった。肉体を差し出さなければ、愛情をもらえないと思っていた。しかし、心の伴わないセックスで男を誘ったところで、過去の傷が癒えるはずなどなかったのだ。  泉水は、一季を一人の人間として認め、ちゃんと心で愛してくれる。  そういう存在こそが、一季が本当に求めていたものだった。  ――もっと、一緒にいたいなぁ……。 「あの、もうひとつ、お願いしてもいいですか?」 「お、お願い……!? あ、ど、どうぞ!! 喜んで!!」 「ええと……」  一季はしばし躊躇いがちに目を伏せたあと、自分を勇気付けるように、拳を握る。  そして、にこにこと嬉しそうに次の言葉を待っている泉水を上目遣いに見つめ、おずおずとした口調で、こう言った。 「こ、今夜はずっと……僕と一緒に、いてもらえませんか……?」

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