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第8話
その頃、圭は奇妙な現象に陥っていた。
家に帰ったはいいが、恭一郎がいない──、そう玄関で感じて家に上がり込んだところ、彼の匂いが恋しくてたまらなくなった。
そのうち帰ってくるだろうと分かっていても、彼の匂いがないと落ち着かない。
圭はしばらく悩んだ後、恭一郎が使っているクローゼットを開けてみた。
そしてなるべく彼が頻繁に着用している服を選んでは、ベッドの上に放り投げる。
服だけでは飽き足らず、下着や靴下まで引っ張り出すと、こんもりとした山ができた。
圭は迷うことなく衣服の山に潜り込み、愛しい人の匂いを満喫する。
そのうち、眠くなってきた。
恭一郎は、もしかしたら聖が好きなのかもしれないと焦ったが、それならそれで構わないと思えるのだから不思議だ。
大切な存在だからこそ、普通に結婚して幸せになって欲しいと望んでいるからなのかもしれない。
恭一郎が帰宅すると、室内は静まり返っていた。
どこにも明かりが点いておらず、やはり圭は帰っていないのかと盛大な溜息を吐きながら玄関の照明のスイッチを入れる。
「ん?靴がある……」
圭の黒いスニーカーがあるということは、彼は帰宅しているということだ。
恭一郎は玄関で靴を脱いで、まずはリビングの電気を点けた。
「いない……寝室か……?」
呟きながら寝室に入って明かりを点ければ、ベッドの上に恭一郎の服の山が築かれている。
何だ、これは──?と一瞬後ずさるが、そうしてしばしじっと見つめていると、規則正しい寝息が聞こえてきた。
圭はこの中にいるのかとゆっくり衣服を剥いでいけば、彼は衣服の山の中で背を丸めて眠っていた。
「圭、起きろ」
軽く肩を揺さぶるが、何の反応もない。
「起きろ!」
今度は大きな声を出し、力の限り揺すってみるが、やはり彼は反応しなかった。
「……まったく」
恭一郎はどうすればいいのかと、ベッドの下に座り込んで、2人分の弁当を床の上に置いた。
こんな時に役立つのがネットに出回っているΩに関する記事だと分かっているのだが、とりあえずは疲れた身体と心を少し休めたかった。
結局のところ、聖は相川のプロポーズを丁重にお断りした。
同時に恭一郎の気持ちが少しだけ理解できた気がする。
その気のない相手に告白されても、少しも嬉しいとは思えないのだ。
「ゴメンねぇ、相川クン」
べろべろに酔った同僚に肩を貸しながら、空車のタクシーを待つ。
聖としては一刻も早くこの酔っ払いをタクシーに押し込んで、家に帰ってしまいたい一心だ。
「謝るなよぉ……あんないい男にフラれたとかよぉ、ある意味アイツ反則だよ、反則!」
「ちょっと大声出さないでって。あ、来た!」
聖は相川の相手をしながら空車表示のあるタクシーに向かって手を振り、止まったところで巨体の相川が車に乗り込むのを手伝った。
そしてドライバーがドアを閉めようと操作する寸前に、相川は聖の細い手首を掴んだ。
「なぁ、マジで俺のこと、候補として考えてもらえねーか?」
「え……?」
「今好きじゃねーなら、これから好きになってくれりゃいい。少なくともさっき会ったあの若造よりは、俺の方がお前のこと幸せにしてやれる」
どうやら相川は思うほどに酔っていないらしい。
さっきまでぐだぐだだったクセに、今はしっかりと呂律が回っていて、とても酔っ払いには見えない。
「これから、かぁ……その発想はなかったかも」
「だろ?」
「でも、だから相川クンを好きになるかどうかは分かんない。これからのアタシは、アナタとは別の人に恋をするかもしれないし」
「心配すんな、絶対に惚れさせる。んじゃ、運転手さん、車出してください」
パタン──、とドアが閉められて車が走り出すと、聖は一歩下がってタクシーを見つめた。
今の今まで「過去」という時間軸にばかり縛られていたが、「未来」に目を向けることも大切だと、面と向かって説教されたような気がする。
「そっか……『これから』、かぁ……」
大切なのは、「今」と「これから」。
変えられない「過去」に捉われ続けるのは愚かしい。
そう頭では分かっているのに、心がその思考にちゃんと追いつくのはもっともっと先のことになりそうだ。
聖はすっかりタクシーが見えなくなると、駅に向かって歩き始めた。
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