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凛は大いに動揺していた。
春休みの後半、土曜日、初めて訪れた郷野宅。
オートロックの五階建てマンション、綺麗に片づけられた角部屋、ゆったりとした広さの1Kにて密かに動揺していた。
「藤崎、先に風呂いいぞ」
夕食と後片付けを済ませ、あまり内容が入ってこないテレビのバラエティ番組を眺めていたら、郷野からバスタオルを手渡された。
凛は自分の荷物から着替えをわたわた取り出し、玄関側にある浴室へ向かった。
慣れない中折ドアを開けば、自宅で使用しているものとは違うシャンプー、ボディソープがバスラックに置かれている。浴槽にはお湯が溜められていた。
湯船に肩までちゃぷんと浸かった凛はタイル張りの壁と真顔で睨めっこした。
オレ、今夜、ここに泊まっちゃうんだ。
『春休み中、泊まりにくるか』
先日、郷野からの願ってもないお誘いに舞い上がった凛はその場で即座に「行きます」と返事をした。
能天気に浮かれていたのは最初だけ。
昨夜はろくに眠れずに今日という日を迎え、いつもの待ち合わせ場所に向かうその足取りは非常にぎこちないものだった。
現実味がなく夢のようにふわふわしていた感覚だったのが、お風呂に入るなり、急に実感が湧いてきた。
どうしよう、どうしよう。
先生の家に来るのって初めてで、先生とのお泊まり自体も初めてで。
どどどどうしよう……!
「お前、茹蛸みたいだ」
危うく逆上せる寸前までお風呂に入っていた凛。
フラフラと部屋に戻れば、部屋の隅で、ノートパソコンや参考書が置かれたシステムデスクに着いて作業していた郷野は微かに笑った。
パソコンの電源を落とすと、直立していた凛に寛ぐよう言い、自分も風呂に入ると部屋を後にする。
残された凛はシンプルな内装の部屋をきょろきょろ見回した。
夕食をとったダイニングセット、テレビと向かい合う三人掛けソファ、壁際に配されたベッド。
インテリアは必要最小限に抑えられ、無駄なものは一切ない、実にこざっぱりとした郷野の住処。
こういう場合って、どう待てばいいの?
どこにいるのが自然なんだろう?
嫌でも視界に入る壁際のベッドを改めて見、茹蛸状態だった凛の顔はさらに赤くなる。
えっと、それはちょっと、あからさますぎる……?
だからって壁際にいたら……露骨に嫌がってるみたい?
別に嫌なわけじゃないけど。
先生の家でするって初めてで、何となく、くすぐったいっていうか。
でも……嬉しい気持ちの方が大きい……かな?
……実はしなかったりして。普通に寝たりして。
……も、もちろんそれでもオレは全然構わないですっ、今夜どうするかは郷野先生に委ねますっ。
「藤崎」
「……!」
凛が居場所に迷っている間に入浴をさっと済ませてきた郷野。
部屋のほぼ中央で声もなく驚いた生徒に、また微かに笑った。
自分の頭に引っ掛けていたタオルをとると、力を加減して凛の髪を拭き始める。
「お前、ずっと緊張してるな」
彫刻さながらに固まった凛はタオルドライに勤しむ郷野を上目遣いに照れくさそうに見上げた。
「……すみません」
「謝らなくていい」
ふと唇にキスされた。
会話中のさり気ない柔らかなキスに、その両手に、凛の緊張は少しずつ解けていく。
「箸を逆に持って食べていたのには、な。正直驚いた」
「あれは、その、あまり向かい合って食べることがないので」
「車で並んで食べることが多いからな」
「変に意識しちゃってすみません」
「なぁ、藤崎」
改まった呼びかけに凛は双眸をより大きく開かせた。
郷野はタオル越しに凛の頬に両手を宛がい、愛しい生徒を見つめて、問う。
「今日、名前で呼んでもいいか」
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