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番外編-狼先生は本当に狼だった
藤崎凛は学校の体育教師である郷野の秘密をこの世界で唯一知っている。
それは一ヶ月前のこと。
雨のひどい日で校内は湿気だらけ、廊下も滑りやすくなっていた。
合同授業のため凛はクラスメートと一緒に多目的教室へ向かっていたのだが。
途中でうっかり忘れ物をしてきたことに気がつき、慌てて一人教室へと引き返した。
教室に戻って机の中を探っていたら鳴り始めた始業ベル。
当然、凛は焦る。
ペンケースやテキストを胸に抱くと駆け足で教室を飛び出し階段へ向かった。
朝よりも強くなった雨足。
裏庭の木々の葉が雨滴に打たれて下を向きっぱなしだ。
階段に差し掛かった凛は速度を緩めずに駆け下りようとする。
そこへ、背中にかけられた、呼び声。
「藤崎――」
反射的に振り返ろうとした凛のシューズ裏が派手につるりと滑った。
バランスを失い、声を上げる余裕もなく、その華奢な体は大きく傾いて。
真下の踊り場へ落下していく…………。
しかし凛を受け止めたのは冷たく硬い床材ではなく、ふわふわもっこもこなお腹、だった。
「……え……」
凛は何度も瞬きした。
脱げたシューズや持ち物が踊り場に四散しているのが視界に入り、自分の現状を思い知らされる。
オレ、今、滑ってここに落ちた……んだ。
でも全然痛くない……?
背中が妙にふわふわしてるけど階段に絨毯なんて敷かれてたかな?
「グルル…………」
凛は、恐る恐る、自分が下敷きにしているものを見下ろしてみた。
そこにいたのは狼だった。
正確に言うならば階段を転落しそうになった凛を助けるため、咄嗟に俊敏な狼の姿となって生徒を受け止めた、体育教師の郷野先生だった。
郷野は人狼だったのだ。
さらに正確に言うならば生徒である凛に密かに思いを寄せていた、片思い中の人狼先生だった。
そして現在。
夜の入り、郷野の自宅へ制服のままやってきた凛は学校よりもはしゃいだ様子で。
「わぁ。気持ちいい」
狼化した郷野に抱きついてもふもふふかふか感を満喫していた。
狼郷野は大人しく生徒の好きなようにさせている。
それは当然だろう、だって片思い中の相手だ、嫌なわけがない、むしろとても嬉しい。
「あったかいです、上等な毛布みたい、一緒に寝たら最高だろうなぁ」
凛の思わぬ大胆発言に狼郷野は鋭い双眸をぱちぱちさせた。
延々と飽きずに長い毛並みに頬擦りしてくる凛へ顔を向け、長い舌を伸ばす。
べろんべろん、瑞々しい頬を、舐める。
「くすぐったいです、先生」
凛は声を立てて笑い、艶やかな毛並みに顔を埋めてきた。
狼郷野のふさふさ尻尾は揺れっぱなしだ。
が、しかし。
「藤崎」
「あ……オレ、そろそろ帰りますね」
狼郷野が人型に戻れば急に余所余所しくなって、距離をとり、伏し目がちになってしまう。
さっきまでの幸福な甘い時間はどこへやら。
「藤崎、もう俺に抱きついてくれないのか」
「え……っ」
そんな質問をすると凛は真っ赤になって戸惑い、さらに視線を泳がせる。
そんな反応に、態度には決して出さないが心では泣いている郷野、思わず禁断の過ちを犯してしまいそうになるのだ。
いっそ狼のまま押し倒してことを進めたらいいのだろうか。
「……先生?」
いや、さすがにそれは酷だろう……。
急に黙り込んで虚空を見据える郷野に凛は首を傾げながらも、そっと、胸を疼かせる。
この姿の先生に、あんなべたべたするなんて、無理。
オレの心臓きっと壊れちゃうよ、先生……。
「……ああ、一部名残りを残すかたちで、獣耳尻尾つきならどうだ、藤崎?」
「……(あの郷野先生がかわいく見える……オレ、重症みたいです)」
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