51 / 79

番外編-仔兎生徒は本当に兎だった?

郷野は目を疑った。 飼育小屋などない高校の校舎内にどうして兎がいるのだろうと、不思議に思った。 仔兎は放課後の人気のない廊下の隅っこに小さく丸まっていた。 愛らしい尻尾が、いや、全身が震えている。 近隣の住宅から逃げ出して校内に紛れ込んだのだろうか。 まさか野生のわけがない……。 とりあえず郷野はしゃがみ込んだ。 仔兎は長い耳をぺちゃんと伏せ、うるうる潤む黒目がちの双眸で、優しく笑いかけてくるでもない淡々とした表情を保つ体育教師を見上げる。 郷野はまるで猫を呼ぶように、片手を差し出し、長い骨張った指を不揃いに遊ばせてそばへやってくるよう促してみた。 淡い色をした仔兎は鼻をヒクヒクさせる。 ぴょんっ、ぴょんっ、ひんやりした廊下を跳ねてくると、郷野の指先をスンスン嗅いだ。 とても、いや、とてつもなく可愛い。 撫でたら嫌がるだろうか? 郷野はゆっくりを心がけて仔兎の頭を撫でてみた。 小さなか弱い生き物が逃げ出す気配はない。 郷野はふわふわした仔兎をそっと胸に抱き上げてみた。 やはり腕の中で大人しくじっとしている。 事務室に届け出ることもせずに、パーカージャケットの内側に丁重に仕舞うと、郷野は仔兎を自宅にお持ち帰りした。 明日、ちゃんと届け出て飼い主を探してもらう、それでいい。 一日くらい預かっても支障はないだろう。 別に郷野はそこまで動物好きというわけではなかった。 だが、この小さな仔兎を手放したくないと、強くそう思った。 ……どことなく似ているような気がする。 ……だから、だろう。 満月がひっそりと地上を見守る深夜。 五階建てマンションの綺麗に片づけられた1K。 眠っていた郷野は寝返りを打つ。 がさがさごそごそ 些細な物音が聞こえた。 眠りと目覚めの狭間で郷野は何の音だろうかと、ぼんやり夢うつつに考える。 そして、ああ、学校で拾って自宅に持ち帰ったあの仔兎が部屋の中を跳ね回っているのだろうと、思い至った。 また反対側へ大きく寝返りを打って壁際を向く。 がさがさごそごそ ……やたら跳ね回っているようだ。 ……外へ出たいのだろうか? 仔兎は手頃な大きさのダンボール箱にふかふかのタオルを敷き、レタスを添えて、そこに休ませた。 この音からしてどう考えてもダンボール箱を飛び出している。 もう一度寝返りを打った郷野は重たい瞼を緩々と持ち上げた。 「……」 明かりを消した部屋の中、郷野の視界に真っ先に写り込んだのは背中だった。 仔兎の背中じゃあない、どう見ても人だ。 華奢な肩、だぼだぼのシャツ、今、どうやら前のボタンをせっせとかけているようだ。 郷野の視線に気づいたのか。 彼はおもむろに振り返った。 「……藤崎……?」 「起こしてすみません、郷野先生」 ……ああ、そうか。 ……これは夢だ。 ……俺の部屋の中に生徒の藤崎凛がいるわけがない。 何よりもかけがえのない一人の生徒を想う俺の心が生んだ幻だろう。 「シャツ、借りますね……裸じゃ帰れないので……あと小さめのスウェットとかあったら、それも借りていいですか?」 郷野が眠るベッドのすぐそばまで彼はやってきた。 やはり藤崎凛だ。 夜中なので、ちゃんと声のトーンを落とし、申し訳なさそうに郷野を覗き込んでくる。 郷野は毛布の下に沈めていた腕を伸ばした。 か細い手首を掴むと引き寄せる。 毛布に埋もれたままの自分の真上に。 「せ……先生?」 「帰るな、ここにいろ、藤崎」 いきなり腹の上に乗っけられて驚いている凛を郷野は抱きしめた。 温かい。 夢とは思えない。 でもこれは夢だ。 「……ん……!」 郷野は凛にキスをした。 たちまち強張る華奢な体から緊張を取り除いてやるようにずっと抱擁を続ける。 位置を変わり、毛布を巻き込んで凛をベッドに仰向けに寝かせ、キスも続ける。 唇の狭間で零れ出る吐息の温度はやたらリアルに思えた。 最初は突っ返すように我が身にあてがわれていた両手が、やがてぎこちなく肩の辺りに落ち着いて、ぎゅっとしがみついてきた、その力も。 「……せんせ、い……」 か細く呼号してくる凛の切なそうな顔も。 「……藤崎……好きだ」 「あ……ぁ……っ」 「誰よりも……誰にも渡したくない……藤崎……」 夢だから何を言ったって構わない。 聞き分けのない子どもじみた独占欲を曝け出して、日ごと腹の奥底で育っていった欲望を野放しにしたって許される。 何度も何度も、深く深く、蜜の味に溺れるように口づけて。 郷野は最愛なる生徒をずっと抱き続けた。 翌日、郷野は凛と廊下で擦れ違った。 凛は、過剰なくらいに俯いて、脱兎の如く郷野の傍らを走り抜けていった。 「うわ、藤崎、いきなり何!?」 慌てた友達に追いかけられる華奢な背中を密かに目で追い、郷野は、思わず顔半分を片手で覆う。 今朝、目が覚めたら仔兎はいなくなっていた。 一瞬、校内で拾ったこと自体が夢だったのかと疑った郷野だが、ふかふかタオルが敷かれたダンボールを見つけて、それは違うと思い至った。 仔兎はどこに行ったのか。 今さっき、藤崎から感じた匂いは、俺自身のものじゃなかったか? 狼的本能が語りかけてくる真実。 さすがの郷野先生もおとぎ話さながらのファンタジーに頭を悩ませる。 夢じゃなければ死んでしまうくらいの直球なる発言の数々を、俺は……。 『あいしてる』 先生、先生、オレ、どうしよう。 先生の熱といっぱいの言葉がずっと離れない。 郷野先生、オレ、どうしたらいいの……?

ともだちにシェアしよう!