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瞼の裏に刻まれたのは咲き誇る満開の桜と、そして。 「藤崎、今日はすまなかった」 エンジンがかけられたままの車内で郷野は凛に詫びた。 夕刻の肌寒い空気へ身を投じかけていた凛は首を左右に振って、その日、二人は別れた。 今日、そういえば一度も名前で呼ばれなかった。 帰宅した凛は自分の部屋のベッドにうつ伏せになると壁一点をぼんやり眺めた。 『凛、もういいか』 昨日の夜、先生に名前を呼ばれた。 学校とは違う呼び方にすごくどきどきした……。 『真一』 明かりを点けていなかった部屋が次第に暗くなっていく中、凛は、今日初めて会った真葵のことを思い出していた。 「君も行こうよ、お花見」 「え……」 「真葵。やめろ」 「真一と二人で今日一日過ごす予定だったんだろうけど。お邪魔虫な俺が誘うのも何だけど、さ」 職場で朝を迎えたにしては疲労感を全く感じさせない、溌剌としている真葵の背後で郷野は呆れ返っていた。 真葵が来てからというもの、いや、電話があった時点から郷野は日頃見慣れない一面を凛に見せていた。 「どうしてそう勝手なんだ、お前は」 「それが俺のいいところなの。先が読めなくて面白いでしょ」 「……」 マイペースな真葵に完全に呑まれている。 言葉を濁し、涼しげに笑う客人をただジロリと睨んで不満を噛み砕いているようだ。 身長は真葵の方が低い。一八〇手前といったところか。 さりげなく筋肉質である体育教師の体つきと比べればスリム体型、お互い砕けた言葉遣いから察するに同年代らしいが。 あの郷野が振り回されているのには驚きだった。 先生と真葵さんは友達なのかな。 ぱっと見、正反対っぽい二人。 長い付き合いなのかな? オレが部屋にいるのに、部屋に上げたんだから、そうじゃないとおかしいよね。 真葵さんも、男のオレがベッドにいて、そんなにびっくりしてなかったし。 つまり……先生のことをよく知ってるから……。 あ、あれ……? そもそも先生って男の人だけ? 女の人と付き合ったことあるの? 今更ながら郷野の恋愛遍歴について何も知らないことに凛は一人愕然となった。 実際、郷野はバイで、それなりに出会いと別れを経験してきた。 寡黙な体育教師は自ら多くを語らず、凛は秘密の関係に浮き足立って彼の過去まで頭が回らず、今に至ったわけだ。

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