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短い十分程度の間に凛の胸に悩みの種を撒くだけ撒いて、速やかにパンケーキセットを平らげた真葵は伝票を取って立ち上がった。
「高校生にご馳走してあげられるなんて滅多にない機会だから」
宮坂はそうでもなかったが、遠慮して拒もうとする凛にそう声をかけ、全員の支払いを済ませた彼はファミレスから颯爽と去って行った。
「面白い人だな」
「面白い? そうですか? オレにはついていけなくて……ちょっと苦手です」
凛がそう言えば宮坂は迫力ある三白眼を見張らせた。飾り気のない長い睫毛を微かに震わせ、そして、元より色味の強い唇をやんわり綻ばせた。
「君もそういうこと言うんだな。面白い」
宮坂の定める面白さの基準がさっぱりわからない凛なのであった。
宮坂と別れ、停留所に立ってバスを待つ間、凛は真葵との邂逅に不安を加速させていた。
夕方前、まだ日は高く、快速に流れる表通り。
部活帰りらしき女子グループの笑い声が耳元を掠め、マフラーが外されて外気に曝された首筋を悪戯な春風が吹き抜けていく。
昨日、ほんとに先生は真葵さんと会っていたのかな。
会って、二人きりで、ドライブとか……もしかして部屋で二人きりで、とか……。
「……」
不安げだった凛の眼差しが、おもむろに、別の感情によって揺らいだ。
自分自身、郷野を傷つけた前科があることに気がつき、よからぬ疑惑で思考が偏っていた彼はそっと息を呑んだ。
郷野先生、こんな気持ちだったんですか?
三月の卒業式、いきなりオレからあんなメールが届いたとき。
修了式、車の中で先輩との話を聞いたとき。
『……すまない、藤崎』
こんなに苦しかったんですか……?
「……くしゅんっ」
悪戯な春風にしつこくからかわれた凛は首を窄めた。
厚手のカーディガンのポケットに両手を突っ込む。
すると指先に違和感を覚え、何だろうと、摘まんで取り出してみた。
凛の乗るバスが停留所に着いた。
数人の乗客を乗せて発車しても尚、凛は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
夕方六時を過ぎても活発に機能し続けるオフィス街の一角。
赤茶けた煉瓦タイルの外壁がぱっと目を引く、八階建てのテナントビルにて。
「委任状に書かれている住所なんですが。正式なものを書いて頂けますか?」
四階でエレベーターを降りるとフロアには二つのオフィスがあった。
手前のドアには某保険会社の代理店と記されたプレート表札が取りつけられている。
「説明したとは思いますが、住民票通りの住所をご記入下さい。ハイフンは使用せずに。たとえば一丁目二番地、となっているはずです」
奥のドアには<真葵涼汰朗司法書士事務所>と記された真新しいプレートが。
中では代表者の真葵が書類だらけのデスクで電話している最中だった。
「ではもう一度委任状をお送りしますので。お手数ですが住民票を取り寄せて確認されてから、こちらへご返送下さい」
最後に早口に挨拶を述べて真葵は電話を切った。
代表者以外、誰もいない、照明が半分落とされたオフィス。
来客スペースはパーテーションで区切られ、奥には給湯室が備わっている。
通りに面する窓を覆うブラインドの隙間からは灯り始めた街明かりが覗いていた。
書類だらけのデスクから立ち上がった真葵は応接セットに移動した。
来客の際は綺麗に片づけられているはずのテーブル上は、これまた派手に散らかっていた。
明日裁判所に提出予定の訴状や複数のファイルが積み重なり、端の方にはICレコーダーが筆記用具と共に転がっている。
「一端、休憩するか」
まだ仕事が残っている真葵は、一日の疲れを感じさせない軽い足取りで、コーヒーを淹れるため給湯室へ向かおうとした。
玄関ドアがノックされた。
新規相談や打ち合わせの予定はない。誰か書類でも届けにきたか。
真葵は特に不審がるでもなくドアへ向かい、一声かけ、ドアスコープから相手を確認してみた。
「ん?」
まさかの来訪者に真葵は目を疑った。
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