70 / 79
8-3
『半年後、俺の方から別れを切り出した』
郷野先生は自分から真葵さんに別れを告げた。
真葵さん自身はどう思ったんだろう?
三年前に先生と出会って、半年間付き合って、別れを告げられて、すんなり別れた。
それから連絡が途絶えていた。
先生より二つ年上のマイペースな人。
『あれ。先客いたんだ?』
真葵さんは郷野先生に会いにきた。
自分の事務所を開いた、その記念すべきスタートを一緒に祝ってもらう相手に、郷野先生を選んだ。
怒らせるのが好き、興奮するから。
本当にそれだけ?
先生に甘えていたオレをついついいじめたくなった、本人はそんなことも言っていたけれど。
『返してくれないかな』
あの言葉は真葵さんの本音のような気がしてならない……。
「いただきまーす」
照明を半分落として空調設備は完全停止した事務所にて。
現在、三十歳の真葵は冷えても味わい深い煮物を割り箸でぱくぱく食べていた。
「さてさて、訴状の控えはとった、印紙も貼りつけた、金額は間違っていない、副本も登記事項証明書も添付した、と」
これからもっと忙しくなる。
丁度いい、忙殺されて余計なことを考えずに済む。
心の奥底に未練たらしく燻っていた片想いの残骸を完全に灰にしよう。
「藤崎」
カーテンの隙間から僅かに洩れた外灯の明かりが差すベッド。
縁に腰かけた郷野は真下から自分を見上げる凛の頬に手を伸ばす。
「郷野先生、オレは……」
二学期の十一月、秋から冬へ移り変わる季節、あの日の放課後。
バスケ部の練習指導を終えて帰るところだった郷野は、視界をかろうじて過ぎったその生徒の後ろ姿に、足を止めた。
「先輩、どこに行くんですか……?」
自分の視界には収まらなかった誰かの後をついていく凛。
死角で姿の見えない相手と、小声で、楽しそうに笑い合っていた。
「もう少し俺と一緒にいてくれるか、藤崎」
まだ多少息を弾ませている生徒が浅く頷いたのを見、郷野は大事そうに彼を持ち抱え、キッチンからベッドへ運んだ。
カーテンの隙間から外灯の明かりが細く差し込むシーツの上に寝かせ、すかさず覆いかぶさる。
呼吸を手伝うようにキスしてやる。
唇伝いに熱もつ息を流し込んだ。
「っ……は、ぁ……せんせ……」
あの日、俺はお前が倉庫にいたことを知っていた。
相手の顔は確認できなかったが、上級生、笑い声で男であることはわかっていた。
しょうもない真似をした。
俺自身、愚かだと思う。
無様な嫉妬に駆られて、息を潜め、慎重に鍵を開けた。
自分を置き去りにした相手を守ろうとした藤崎に対し、教師にあるまじき暴走を止められなかった。
後悔はしていない。
「郷野先生、オレ……熱いです」
こうしてお前を腕の中に抱くことができる。
それ以外、何も望んでなどいないから。
「先生も熱いですか……?」
答える代わりに、郷野が自身の熱の源へ片手を導けば、凛の睫毛は忙しなく震えた。
か細い指に筋張った指を絡め、上から力を込めると、まるで自分が愛撫されているように切なげに眉根を寄せた。
「ま……待ってください」
肩にもう片方の手をあてがってきたので郷野は身を起こした。
凛も続いてもぞもぞ起き上がると、今度は郷野の両手首をとって、まるで小さな子どもが遊びに誘うように引っ張り、体育教師をベッドの縁に座らせた。
「藤崎」
ともだちにシェアしよう!