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運命のつがい ③
* * *
「弘、おやつにしようか」
「あい!」
俺は「おやつ」と聞いて目を輝かせる我が子の頭をくしゃくしゃとかき回すと、ソファーから立ち上がってキッチンへ移動した。
ちらりと壁掛け時計を確認し、――そろそろ入国手続きや荷物受け取りなども済んでゲートを出た時分だろうかと頭の片隅で目算する。
(今回の出張、一週間なのに…長かったな)
もっと長期期間の出張もこれまでにはあったが、今回ほど長く感じたことはなかった。
ここ最近のくせで、俺は自分のうなじに手をあてて傷口に指を這わせた。傷痕に貼られた傷用医療パットがそこを覆っている。かなり強く噛まれていたため傷はそれなりに深かったが、最近のパットは優秀なので傷はもうほとんど癒えていた。
(痕が残るかな…)
いっそ残ってくれたらいいのに、なんて自分の乙女思考に苦笑する。
俺のここに真新しい傷を残して旅立った夢川とは、ほぼ毎日、スカイプで話していた。
だが、今回ばかりは画面越しの会話がもどかしくて仕方なかった。
……モニターに映る顔に触れても、指先は決して生身のあたたかさを伝えてはくれないし、カメラと画面が別々の位置にあるせいで互いの目線を合わせることもできない。
本当に、もどかしかった。
でも、そんな想いも今日で解消される。
あと数時間ほどで…上手くすればもっと早く、夢川と会える。
俺は自分のあまりの浮つきっぷりに気づき、少しばかり恥ずかしくなった。
新婚のときだって、これほど恋しくてたまらない気持ちになったことがあっただろうか…。
俺と夢川はいわゆる「できちゃった婚」だったから、新婚時期が妊娠・出産・子育てともろに被ってしまっていたので、いちゃつける雰囲気でもなかったし、そもそもそんな心のゆとりもなかった。
初産だったこともあって、初めての育児とその他の家事をこなすので精一杯だった。
ようやく一人目の歩に少し手がかからなくなった頃、二人目を妊娠し、弘を出産…一度通った道だから確かに前よりも何かにつけ手際よくこなすことができたが、二人目ということはイコール一人目がいるわけで…そちらを放って乳児にばかりかまけているわけにもいかず、歩が赤ちゃん返りをしたり、第一次反抗期をむかえたり、弘の夜泣きがひどかったり…と毎日がてんやわんやで――振り返れば出産からこっち、夢川よりも子供第一だったようにも思う。
――そんなそぶりはあまり見せることもなかったけれど、後回しにして当然という扱いをしていた夢川に、寂しい思いをさせてしまっていたのかも、と俺は今になって反省したりもした一週間だった。
弘におやつのどら焼きを出したところで、家の電話が鳴った。
ディスプレイに表示された文字にどきんと心臓を高鳴らせて急いで出る。
「もしもし…」
「ただいま帰りました」
受話器越しに聞こえた声は、表示されていた通りの相手で自然と顔がほころんだ。
「…はい、おかえりなさい。おつかれさまです。無事でよかったです」
夢川が乗った飛行機がちゃんと空港に着陸したことはすでにチェック済みだったが、海外出張のときはいつも不安がつきまとう。
仕事が成功することも大事だが、なによりも夢川が事故や事件に巻き込まれることなく帰ってきてくれることが一番大事なことだ。
「早く君や子供たちに会いたいです」
「俺も、会いたい…です」
「かわいいことを言ってくれますね。珍しく」
「珍しくは余計ですよ」
俺が拗ねた口ぶりでそう言うと、夢川は機嫌よく笑って、寄り道せずに帰りますねと電話を切った。
「あ、…気をつけてって言うの忘れた」
「とうとぉー! おちゃおかわりくださいー!」
一瞬、かけ直そうかと受話器を取るが、弘の呼びかけに俺はまぁいいかとコップを持ってオネダリをしてくる息子に意識を移した。
「お茶ね、はい、ちょっと待ってな」
冷蔵庫から目当てのボトルを取り出し、先に弘のコップ、ついでに自分のコップにもお茶を注いだ。
――その時点で、頭をかすめた「気をつけて」の一言は俺の中から消えていた。
それを思い出すのは数時間後、――駆けつけた病院のICUでのことであった。
その知らせは、病院からではなく、海外渡航に同行していた殿塚薫からもたらされた。
「いいか…落ち着いて聞け。――夢川の乗った車が事故に会い、夢川は〇〇病院へ緊急搬送された。すぐに向かえ。可能なら、子供も連れて」
一瞬で頭が真っ白になった。
手はぶるぶると震え、視界から景色が遠ざかる。
事故。夢川が? 病院? 緊急、搬送…。
「…手嶋? 手嶋…! 気をしっかり持て…! 夢川の状態はまだわからない。だが、命はある。しっかりしろ! おまえが車の運転をするなよ? すでにタクシーをそっちへ向かわせている。それに乗って病院まで来い。わかったな!? 手嶋、返事をしろ!」
「は…い、わかり、ました」
俺は錆びついたロボットのような返事をして電話を切った。
「行かなきゃ…病院…」
事故…。
――夢川が、無事なら無事と言うはずだ。
「命はある」状態。
だが、――予断を許さない状態?
ぞっと全身から血の気が下がり、俺はその場に膝をついた。
「うそだ…だって、さっき…電話で…」
元気な声を聞いたばかりで……。
「……寄り道せずに帰るって…」
そう言って笑っていたじゃないか。
「とうと?」
すぐそばから聞こえた弘の声に、俺ははっと我に返った。
無垢な瞳が心配そうに俺を覗き込んでいた。
(そうだ。俺は、…父親だ)
弘の、歩の――。
肺に溜まっていた湿った息を吐きだし、きゅっと小さな体を抱きしめる。
「父と一緒に社長を迎えに行こうな、弘」
「しゃちょー! おむかえいくー!」
そうだ。
迎えに行く。
ちゃんと、一緒に帰るために。
俺たちは、家族だから。
「にいちゃも、いっしょ?」
「ああ、一緒だよ」
それから俺は急いで支度をし、迎えに来たタクシーに乗って途中にある小学校で歩を拾い、病院へと駆けつけた。
到着した病院エントランスには殿塚が待機していて、すぐに夢川が収容されているICU(集中治療室)へと案内してくれた。
そこにはすでに、俺にとっては義理の親、子供たちにとっては祖父母である夢川の両親も到着していた。俺は気が急くばかりで、義両親に連絡していなかったことを彼らの姿を見てから思い出した。
殿塚が連絡してくれたのだろう。夢川と殿塚は幼い頃からの友人だし、家族ぐるみでの付き合いもあったそうだから。
だが、俺は嫁ぎ先への不手際に対する詫びもせず、彼らへの挨拶すらすっとばして、夢川が横たわるベッドの方向へと駆けつけた。
治療室と外界を隔てるガラスがもどかしい。
今すぐそばに行きたい。
顔に傷はないものの、頭部全体に巻かれた包帯が痛々しく不安が募る。
「お…おさむさんの、状態は…」
情けないほど掠れた声で、誰にともなく問いかけた。だが視線は、包帯からのぞく端正な夢川の顔の上から一瞬たりとも動かせなかった。
子供たちは祖父母の姿を見つけたとたん、そちらへと行ってしまっていた。――集中治療室に夢川がいることを、俺は二人の子供に伝えられなかった。
「頭を強く打っていて、頭蓋に軽度のヒビが入っている。内部損傷にまでは至っていないようだが、――まだ一度も意識が戻っていない状態だ。他は軽い打撲程度で…、事故の大きさにくらべれば、びっくりするくらい軽症だね」
殿塚の説明はわかりやすかったが、決して安心を与えてくれるものでもなかった。
さまざまな専門医療機器に囲まれた夢川が軽症だなんてとても思えない。
――だが、続けられた殿塚の説明に、俺はその命が奇跡的な……偶然と必然によって救われたのだと知った。
「空港からの帰り道に、反対車線の車が中央分離帯を乗り越えて、走行中の夢川たちの乗る車の前に飛び出してきた。俺は数台うしろの車の中からそれを見た。右前方から迫る車に、運転していた守矢さんは右にハンドルをきった。本能的な自己防衛が働いたなら左に切るところを、右へ。とっさの判断だったんだろうな。――後部座席に乗るあいつを守るために。本来なら二人とも即死であってもおかしくない規模の事故だったよ。夢川が生きているのは守矢さんの忠節とドライブテクニックのおかげだ」
俺は、ようやく夢川から視線を引き剥がし、ここに至る状況を説明してくれた殿塚を、さらには義理の両親を見た。
……夢川よりも厳格そうな義父と、夢川よりもさらに線の細い義母の顔に、深い悲哀と沈痛な色を見て取った俺は、ひどく…ひどく恐ろしい予感に、目を見開いた。
「ぁ…、…そん…な…」
まさか。
――守矢。
ゆっくりと周りを見回す。
どこにも――、どこにもあの穏やかに笑う初老の紳士の姿はなかった。
廊下にも……、ICUの中にも。
どこにも、見当たらなくて、俺の心臓はバクバクと痛みさえ感じるほどの拍動をはじめる。
義父の低い声が、廊下に重々しく響いた。
「……守矢は、病院に搬送される前に亡くなったそうだ」
ひゅっと喉が鳴った。
義父の隣で義母が堪えきれなかったのか口元を震える手で覆い、深く俯いた。
彼女の手のひらから漏れ聞こえる嗚咽が、俺にそれがまごうことなき現実であることを知らしめた。
「……おばあさま?」
「ばぁば?」
子供たちが義母を心配そうにのぞき込む。
とくに長男の歩はこの場の異様な雰囲気になにが起こっているのか、うすうす感づき始めているようだった。ひどく不安そうな顔で、泣き出してしまった祖母と俺の顔を交互に見て小さな唇をきゅっと引き結んだ。
……子供たちの身長では、集中治療室の中で力なく横たわる父親の姿を見ることはできない。
(俺が…俺がしっかりしなくては…)
義母は義父が座れる場所まで誘導してくれたので、その場に残された俺は小さな二人の息子たちを抱きしめた。
「ばぁば、いたいいたい?」
「…うん、ちょっとね。でも、じいじが一緒だからだいじょうぶだよ」
弘にそういって微笑みかけたが、上手く笑えている自信はまったくなかった。それでも懸命に唇の端をひきあげる。
「……父さまは?」
今度は歩におずおずと訊かれ、俺は顔に貼り付けていた笑みを強張らせた。
「大丈夫。父さまも大丈夫だよ」
――守矢が、命をかけて護ってくれたから。
(きっと……大丈夫だ)
それは、俺が自分自身に言い聞かせた言葉でもあった。
だが――、その日、夢川がICUから出てくることも、目覚めることもなく……、完全看護という病院側の名目の元、俺たち家族は全員自宅へと帰されたのだった。
そうしてなす術もなく見守るだけの数日間が過ぎ、ようやく夢川が目覚めたのは、事故から五日後、――守矢の葬儀も終わった後のことであった。
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