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運命のつがい ④
* * *
夢川が意識を取り戻したとき、夢川はすでに命の危険はないものと診断され、ICUから一般病棟の個室へと収容先は移っていた。
意識はないものの、身体の状態は安定しており、脳波やMRI検査の画像でもとくに異常所見などはなく、――むしろいつ目覚めてもおかしくはないというのが医師の見解だった。
しかし周囲の期待とは裏腹に、夢川はなかなか目覚めなかった。
その日、病室に居たのは俺一人だった。
子供たちは実家の両親が面倒を見てくれていた。
俺は時間の許す限り病院に通ってきていたが、根をつめすぎるのは良くないと義母に休むように言われ、その間は義母が夢川のそばについていた。もちろん義母と二人で夢川のそばにいることもあった。義母にとっては我が子のことだ。結婚相手である俺に遠慮している節もあったけれど、息子が心配でないわけはない。とくに夢川は一人息子なのでなおさらだろう。
義父は夢川の抜けた穴をフォローするため、こちらもまた会社に詰めているらしい。……俺もなにか手伝えることがあれば、と申し出たが、今は夢川のそばにいてやってくれと逆に言われてしまった。
――気持ちを慮ってくれる義父に感謝した。
殿塚も多忙な中、何度か見舞いに来てくれた。
一度は俺の初恋の相手でもある元風紀委員長、雛森 碧 を伴って。
いつもなら委員長に会えると俺の気分は風船みたいに浮かれてしまうのだが、今回ばかりはかけられた励ましの言葉に泣くのを堪えるのが精一杯だった。
「理 さん、今日はいい天気ですよ。秋晴れです。絶好の行楽日和ってやつですね。……こんなお天気の日にベッドで寝ているだけだなんてもったいないですよ」
病室にいる唯一の話し相手が眠ったままなので、俺は独り言を言ってるも同然なんだが、なるべく話しかけるようにしている。
はじめは寝顔に話しかけるのに躊躇いもあったが、今ではすっかり慣れてしまって軽口まで叩けるようになった。
「秋になったら家族で紅葉狩りをしようねって弘と約束していたの、俺はちゃんと覚えていますからね。……歩の誕生日だってもうすぐだし、秋はイベントもたくさんあるんだから、いつまでも呑気に寝てられたら困るんですけどね」
文句をたらたら並べ立てて、枕のそばに頭を寄せる。
じわりと目の奥が熱くなってきて、目尻から白いシーツへと水滴が落ち、いびつな水玉模様を作った。
「……はやく、起きてくださいよ」
ふるえる涙声で呟き、ぎゅっと目を瞑る。
一向に意識が戻る気配のない夢川に、弱った心がひしゃげそうだ。
そのとき――、ふっと空気が動く気配がした。
「……泣か…なぃ…で……」
ひび割れて掠れた小さな声が、すぐそばから聞こえた。
「――ッ」
驚きに限界まで両眼を見開いた俺のすぐ目の前に、形の良い大きな手があった。
自分の手じゃない。
この手は、今までに何度も何度も飽くことなく俺に触れた手だ。
思わず縋るように握りしめ、次いで頭をあげてその手の持ち主へと視線をやる。
夢川が俺を見ていた。
――どこか不思議そうな面持ちで。
「おさむ…さん…っ」
「…ここ……わたし…は…」
まだ上手く状況の把握が出来ていないようだ。その瞳の中に困惑の色が見て取れた。
(いや…まさか――)
ぼんやりとした表情の夢川に、俺は一抹の不安を覚えた。
まさかドラマや小説などによくある例のアレじゃなかろうな、とこんな場面に定番となっているパターンへの疑念が頭をもたげる。
夢川は頭蓋にヒビが入るほどの衝撃を頭部に受けていた。可能性としては十分にあり得る状況だ。
――こういうときはどうしていたっけ…?
(確か医師が、まず名前を……そうだ、本人の名前を確認していた…)
そんなドラマみたいなことが早々現実で起こるわけないと思いつつ、ひとまず俺は自分のできることをやった。
心の中で「慌てるな、落ち着け、冷静に」と自分に言い聞かせ、ナースコールボタンを押しながら、夢川に問いかける。
「自分の名前、わかりますか? フルネームで答えてください」
とたん、夢川はわずかに顔を顰め、俺へ呆れた眼差しを寄越した。
「……記憶喪失でも疑っているのですか? ドラマの見過ぎです」
そして、きっぱりとそう言い切った。口調も先ほどまでとは違い、明瞭だ。
もうそこに居たのは、俺のよく知る夢川で――…
「理さん…!」
俺は歓喜の声をあげた。
――事故から五日目にして、夢川がはっきりと意識を取り戻した瞬間だった。
それからの夢川の回復は目覚ましかった。
守矢のことには深く心を痛めた様子を見せたが、身を挺して救われた命だからしっかりしなければと自らを奮い立たせ、落ちた体力を戻すためによく食べ、リハビリもこなし、あっという間に退院してしまった。
そしてすぐさま仕事に復帰した。
……少しはセーブしてくれと頼んだが、倒れていた間にたまった仕事を取り戻そうとするかのように夢川は精力的に日々を過ごした。
診察のために通院もしていたが、縫った頭の傷はほどなく癒え、頭蓋骨のヒビも日増しによくなっていき、経過は順調だった。
――いや、順調に思われていた。
当初、俺を含め、誰も夢川の異変には気づいていなかった。夢川本人でさえも…。
本来なら誰よりも先に俺が気付いてしかるべきだったのに、俺がそのことに気づいたのは夢川が退院してさらに時が経過してからだった。
その日は朝から体調がおかしかった。
やけに熱っぽく、風邪でも引いただろうかと常備薬を口にする。
しかし、昼になる頃にはそれが風邪でもなんでもないことに俺は気づかざるを得なかった。
――発情期 だった。
普通、Ωには、三か月に一度発情期が訪れる。
現代では抑制剤も品質が良く効能にも優れたものが市場に出回っているので、ヒートコントロールも昔とくらべるとずいぶんしやすくなったと言われている。
だが、俺は少し特異な体質のΩだったため、それほど発情期に苦労した経験はなかった。
抑制剤の種類も一番弱いものを服用するだけで良かったし、なによりも発情期自体が年に一回くらいしか来ない上に、その期間も三日ほどの短さだったのだ。
抑制剤さえ飲んでいれば、……いや、むしろ飲み忘れても日常生活にさして困らない特異体質なΩだった。
ただ、夢川と結婚してからは、抑制剤の服用はやめていた。
夢川がそれを望まないのもあったし、Ω男性は発情期にしか妊娠できないからである。
夢川は自分が一人っ子だったためか、兄弟というものに憧れを抱いている節があって、子供は何人いてもいいと言っていた。……生むのは俺だと妊娠発覚直後にツッコミを入れた若かりし頃が懐かしい。
俺は次第にどうしようもなく熱と欲望に狂ってゆく躰を宥めすかしながら、家のことや子供のことなど、発情期間中の段取りを整えていった。
発情期中、子供たちは実家の両親に預かってもらっている。
食材チェックをして植木に水をやって提出期限の近い書類を今のうちに片付けて……――
そうこうしている間に夢川が帰宅した。
夢川には、ヒートの兆候が出てすぐに連絡してあった。
急いで仕事を切り上げてきてくれたのだろう。まだ定時前の時間帯だった。
俺は躰の熱に堪えきれず、寝室のベッドで体を丸めて横たわり、夢川の匂いのついた枕を抱きしめていた。残り香が一番色濃いのはやはり寝具だ。躰がどうしようもなくαを求め、余計に熱を煽るとわかっていても夢川の香りに縋ってしまう。
寝室の扉が開き、夢川が入ってくるのを俺はベッドから見上げた。
「おかえりなさい」
「……ただいま帰りました」
待ちかねた相手の登場に、腹の中が喜びに震え、そこからじゅんと潤いが滲みだすのがわかった。
俺はベッドに身を起こして夢川を出迎えた。
ところが、肝心の夢川は何か戸惑うような…訝 しげな顔をしながらベッドへ近づいてきた。
「発情期 、ですか?」
いつもと反応の違う夢川を、しかし俺はまったく気にもとめず、まだ鞄すら置いていないスーツ姿の夢川に抱き着く。発情中のΩは思考力が著しく低下する。そして躰はもう待ちきれないほどに昂 っていた。一分一秒でも早く抱いてめちゃくちゃにして欲しい。…頭の中はそんなはしたない欲望に塗りつぶされ、――夢川の変化に気づけなかった。
まるで盛りのついた獣 みたいなこのΩの体質を、だが夢川が厭 ったり蔑 んだりしたことなど一度もなかったから、俺は発情期の間は欲情を隠すことさえしなくなっていた。
「早く…」
きっちり隙なく締められたネクタイを解きながら強請 る。
はやく…一刻もはやくこの飢えを満たして欲しかった。
しかし、いつもならとうに――服を脱ぐ間ももどかしいといった具合に求めてくる夢川の様子がどうにもおかしいことに、ようやく気付く。
熱に浮かされた頭では思考力も低下していたが、――夢川はやけに冷静に自分を見ていて、そこには困惑の色があるだけで自分と同種のものを見つけられなくて、まるで自分だけ取り残された気になり、急激な心許なさが生まれた。
今まで経験してきた発情期で、夢川と自分の間に、これほどまであからさまな温度差を感じたことは一度もなかった。
「社長…?」
肌を合わせる時くらいは名前を呼び合おうと、二人の間で決めていたはずなのに俺は夢川を役職名で呼んだ。二人の間に横たわる明確な温度差が俺にそうさせたのだ。
「――すみません」
夢川の口から出た謝罪の言葉に、頭から冷水を浴びせられ、目の前が真っ暗になった気がした。
その謝罪は、――拒絶だった。
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