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運命のつがい ⑤

「な…んで……?」  確認する声が震え、掠れる。  ――なんのために、どうして夢川が謝罪したのか、本当は理解したくなかったのに、勝手に口はそう訊いていた。  こんなにも欲しいのに。  欲しいのに与えられない。  ひどい。ひどい。ひどい。  謝ってなど欲しくない。  謝るくらいなら今すぐ犯してくれ。  暴力的な渇求に飲み込まれそうになりながら、俺はなけなしの自制心と自尊心に縋って夢川のネクタイから手を引いた。  ――夢川は、自分を抱く気が、ないのだ。  雰囲気からそれを察した。  それに――スラックスの中に収まっている夢川の欲望はぴくりとも反応していないようだった。 (なんだよ…それ…)  情けなさに泣きそうになる。 (約束、したのに)  次の発情期に番になると。  契約を結ぶと。  うなじを咬んで、二人の関係を永遠に、絶対的なものにするのだと。  そう、やくそくした、はずだった。  しかし今、夢川の双眸のなかに、約束を交わした時のような熱は、ない。  そこは透徹(とうてつ)した湖面のごとく、しんと冷え切っているように見えた。  胸が痛い。苦しくて、張り裂けそうだ。  地表の見えない暗黒の谷底に、いきなり投げ捨てられた心地だった。  それは、絶望という名の感情によく似ていた。 「わ…かりました。抑制剤…飲んできます」  なんとか喉からそれだけを絞り出し、枕を持ったままベッドを下りる。どんなに情けなく思おうとも、今はまだ夢川の匂いがしみついたそれを手放せなかった。本物が目の前にいるというのに、与えてもらえなかった惨めな自分に嗚咽がもれそうになるのを唇を噛んで耐え、足を踏み出そうとする。  だが、夢川から離れようとした俺の腕が、進む先と逆方向に引っ張られ、その反動で手から枕が転がり落ち、――気づけば俺は夢川の胸の中にきつく抱きしめられていた。 「待ってください。誤解しないで」  どこか切羽詰まった痛々しい声が去ろうとした俺を引き止める。 「君を愛している。私の気持ちは変わらない」  愛の告白だった。  しかし、そのセリフの中に甘さは一切含まれていなかった。  声の調子から察するに、夢川自身も酷く混乱し、動揺しているようだった。  不審に思う俺に、彼は続けて衝撃なことを告げた。 「君のフェロモンが…感じられない。なにも感じないんです…!」  最後の方はまるで悲鳴に聞こえた。 「…え…? なにを…」  言われた意味がわからず、俺も混乱する。  ただでさえヒート中は頭が回らないのに、普段は落ち着いている夢川が突然取り乱すさまを見せつけられた俺はすぐに反応を返せなかった。 (フェロモンが…感じられない…?)  言葉を何度も吟味しているうちに、しかし、じわじわとこれが深刻な異常事態であるということに気づきはじめる。  俺の平時のΩフェロモンは薄いが、発情時に限っては違う。  普通のΩの発情時と同じくらい強く香り、αを…夢川を惹きつけるのだと夢川本人が語っていたし、また発情期に平素の冷静さなどかなぐり捨てて俺を貪り尽す夢川の姿がなによりもそれを雄弁に物語っていた。一筋ほどの疑う余地もなく。  ……俺の発情時のフェロモンが夢川に対して正常に働くという事実は、俺と結婚する前まで何人ものΩと付き合ってきた夢川自身の経験から得た認識であることに嫉妬を覚えないわけではなかったが、同時にほっとしてもいた。  ちゃんと自分はαである夢川を誘えるのだとわかったからである。  だが、――今、夢川は俺のフェロモンになにも感じないと言った。  それは、夢川に性交(セックス)や番契約を拒絶されるよりも深い絶望感を俺にもたらした。 「おれ……の、フェロモン…もう、なにも感じない…?」  心が壊れそうになる。  夢川の瞳にも暗く深い絶望があった。 「違う…違います、あなたじゃない…」 「俺じゃない…?」  ――やっぱり、俺じゃなかったと、……自分の番になるのは俺じゃないと、そう言いたいのか?  顔色をなくした俺を、夢川はなおも強く抱きしめた。  骨が軋みそうなほどに、きつく。まるで川で溺れる人間が濁流に流されまいとするかのように。 「原因は君じゃない。たぶん…、私が、わからなくなっている…。おかしいのは、私の方です」  ――わからない? 夢川がおかしい?  一体どうゆう事だろうとその腕の中で考えた俺は、そこでようやく……ようやく違和感に、とてつもない異変に気付いた。 「社長――、匂いが…」  俺を抱きしめる腕がびくりと大げさなほどに揺れた。  なぜ……今まで気づかなかったのか…――  俺は自分の鈍さに愕然とする思いだった。  確かにいろいろあって目まぐるしい日々を送っていた。  気持ちも沈みがちだったし、集中力だって欠いて、失敗も多かった。 (でも、――こんな大事なことに気づかなかったなんて…) 「匂いが、匂いがしない…」  夢川の、俺を陶然とさせる夢川のフェロモンの匂いが、跡形もなく消失していた。 「どうして……」  Ωが発情すると、そのときに発されるフェロモンに引きずられてαのフェロモンも大量に分泌され、――それによりΩとαは激しく惹きあい求めあう。  そして体質にもよるが、多くのΩとαは平常時にもβと違ってフェロモンを発している場合が多い。  ほのかな香水程度の香りであるが、それは異性種を――主にαはΩを、Ωはαを互いに誘うためだと言われている。簡単に言えば、フェロモンによるセックスアピールである。  『匂い』とよく表現されるフェロモンだが、しかし実際のところそれは一般的に人間が感知する臭気とは異なることは、あまり知られていない。匂いを感知するのは鼻にある嗅覚細胞によってだが、フェロモンはそこで感知されているわけではないのだ。  『匂い』として感じるだけで、臭気テストをやっても嗅覚細胞はフェロモンに対して反応を示さない。  αはΩのフェロモンを鋭敏に感知し、Ωはαのフェロモンを同様に感知する。  βはその両者に対しての感知能力が鈍く、自らがフェロモンを発することはほとんどない。  理屈的には、もし嗅覚で認識しているのならβにも同様に感知されなければおかしい。  だが、βは――皆無とは言えないが、一般的にαやΩのフェロモンに対する感知能力は、両者にくらべると極端に低くなる。  それが何を指すのかと言えば、すなわち、フェロモンを感知する別の感覚器官が嗅覚の他に存在するという考えに行きつくのだ。  ただ、それは世間にあまり周知されていない事実であった。  たいていの人間が、フェロモンのことを嗅覚で感知する「匂い」と同様に考えている。  人間はフェロモンを嗅覚ではなく他の感覚器官で検知しているのだが、どこで人間がそれを感じているのかはまだ解明されていなかった。  肌という説もあるし、もっと別の特別なフェロモン感知器官が存在すると信じている研究者もいた。  息を吸うことで感じる強さが増すことから、鼻か口蓋のどこかにフェロモン受容体があるのではないかという意見が有力だが、それが厳密にどこかを探し当てた研究者はまだいなかった。  俺は自分のフェロモンが薄いことから、一時期フェロモンについて詳しく調べたことがあった。こういった知識はそのときに身につけたものだ。  だが、そんな知識があったって、今の俺は夢川に何が起こっているのかも、どうしたら良いのかもまったくわからなかった。  ただ、俺のフェロモンが薄いせいで…この体質のせいで夢川の状態に気付くのが遅れたことだけは確かだった。  だから夢川自身も俺が発情するまで自分の変調に気付かなかったのだ。 「いつから…」  そう口にした俺だったが、思い当たる節は一つしかなかった。 「……まさか」 「たぶん、事故のときからです」  やはりそうか。  熱い息を吐きだしながらも、俺は懸命に思考を巡らせる。 (――原因として考えられるのは…)    事故による精神的ショックが大きすぎたためか、  あるいは、検査結果には出なくとも脳への損傷があったためか……。  陥没したり骨が砕けたり脳内出血といった重度な損傷があったわけではないが、頭蓋にヒビが入るほどのダメージを負ったことは確かなのだ。  脳への影響が皆無だったなどと楽観視はできない。  ――いずれにせよ、早急に専門医への受診と精密検査が必要だろう。 「わかり、ました…」  俺は夢川の胸を押し、そこから抜け出そうと体を引く。  やはり抑制剤を飲んでこの熱を収める必要があった。一応、なにかあったときのために抑制剤は常備してあった。  ――一度発情してしまった熱は抑制剤を服用しても簡単には鎮まらないかもしれないが、今はそんなことを言ってもいられない状況だ。  最悪、夢川一人で病院へ行ってもらい、――俺は寝室に引きこもるしかないだろう。  しかし、そんな覚悟を決めた俺を夢川は解放してはくれなかった。 「どこへ行こうというのです?」 「――? 抑制剤を飲みに…」 「……飲まなくてもいいです」 「でも――」  αの発情はΩの発情がトリガーになっている。  たぶん今の夢川は、Ωのフェロモンに反応するメカニズムになんらかの齟齬があって上手く機能しなくなっているか、あるいはαフェロモン自体を生成したり排出する器官に支障が生じているか…どちらかだろうと思われた。 (……いや、ダメだ…うまく物を考えられない…)  こんな素人判断で決めつけるべきではないし、きっと…、もっと多くの可能性があるはずだ。  夢川が発情している様子はない。  ――俺だけ、どうしようもなく昂る熱い躰を持て余している状態だった。  つらいのだ。  心も。躰も。  こんなにつらい発情期は初めてだった。  俺には薬に縋るしか道が残されていない。 「発情した君を私が放っておけるとでも?」 「だけど…!」  そんな冷めた目で抱かれたくないのだ。  夢川だからこそ、尚更に。  それに、互いに発情している状態でないと番契約は結ばれない。  次の発情期(ヒート)には番となる、その大切な約束を、ないがしろにしたくはなかった。  番契約の原理は、まだ完全には解明されていない。  それどころか、まだまだ謎の多い未開の分野でもある。  なぜ男女の性別以外の性種を人類がもったのか、そこもはっきりとはわかっていない。起源については諸説あるがどれも仮説の域をでないものだった。  ただ、そんな学術的な知識としてではなく、本能が、躰が「無理だ」と叫んでいた。  今、たとえ夢川にうなじを咬んでもらっても、俺たちは番にはなれない。  それが、すべての感覚でわかっていた。 (フェロモンが…足りない)  夢川の、あの俺を…Ωである俺を陶然とさせるかぐわしい檸檬に似た香りが…、今の夢川からは消えていた。 (無理だ…こんな状態で肌を合わせても……)  満たされることなど、きっとない。  しかし、夢川は俺をベッドに押し倒し、そんな俺の気持ちとは裏腹な行動にでた。そして、思いもよらないことを訴えかけてきた。 「お願いです……私を、――捨てないでください」  見下ろす夢川の瞳に、俺と同じ絶望の色を見つけ、息を飲む。 (――あぁ…)  そうか。  ――俺は、勘違いをしていた。  つらいのは、苦しいのは自分だけだと、そう思っていた。  夢川の必死に抑え込んでいただろう苦悩が…感情が、見えなくなっていた。  一気に視界が滲んで、(まなじり)からそれが溢れた。 「捨てるわけ、ないじゃないですか…。馬鹿なこと言わないで」  夢川の頬に手を当て、学生時代からずっと傍にいて、今も傍に居続ける人に微笑む。 「だって、あなた、俺がいないとすぐヘンなのに引っかかるから…。あんたみたいに面倒くさい人、捨てるならとっくの昔に捨ててます」 「ひどい言い草ですね」 「…………わかってて、プロポーズしたんでしょう?」 「そうですよ。わかってます。――君が、今、どんなにがまんしているのかも、わかってる。だから――」 「抱いてください」  続けようとした夢川の言葉を途中で奪って俺はその首筋に腕を巻き付け引き寄せた。 「俺を、犯して。めちゃくちゃにして、あんたの手で」  挿入などできなくてもいいから、この熱を治めるのは、収めて欲しいのは、あなただけだから。  そんな願いをこめて、乞う。  夢川はすぐに応えてくれた。  顔中にキスの雨を降らせ、「しょっぱいですね」と苦笑する。 「でも、君の泣き顔はかわいくて好きです」  もっと泣かせたくなる、とこんな時なのに冗談なのか本気なのかわからないことを言いながら、中途半端に解かれていたネクタイを片手で外した。  発情している気配はなかったが、夢川の瞳に情欲が浮かぶのを目にした俺は新しい涙を零しながらその手に身を委ねたのだった――。

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