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運命のつがい ⑥

 その日、一晩中、俺は夢川に抱かれた。  ――だが、一晩で夢川の性欲に限界が訪れた。  Ωの発情は、それほどまでに欲深く、相手の精をむしり取る。  Ωの発情を治める方法は、αが抱くか、薬で抑える以外に方法がないのはそのためだ。  Ωの相手はβでは務まらない。  一週間も精を欲しがり続けるΩを満足させることができるのは、αだけだ。  夢川は、幸いなことにEDを発症しているわけではなかったので、勃起もできたし、挿入も可能だった。  加えて射精もできた。  だが、――Ωの発情期間にずっと付き合えるほどの性欲はなくなっていた。  つまりセックスに関しては一般男性、βと同程度のキャパになってしまったようであった。  発情の治まらない俺に夢川は全力で応えようとしてくれたが、やはり俺が先に音を上げた。  途中から、それはもう性交ではなく奉仕になってしまっていたし、――なによりも中で出されないことに堪えきれなくなった。 「突いて…もっと…もっとぉ…! 中…おねがい…出して…ぇ」  禁断症状をおこしかけ、どこまでも貪欲に欲しがる俺に、夢川が泣きそうな顔をして、とうとう俺の口に抑制剤を投入したのを薬の苦みとともにうっすらと記憶している。  心も体も苦しみぬいた夜が明け、まだ発情の続いていた俺はもう一錠、…容量外だったが、夢川の目を盗んで余分に抑制剤を服用した。  そして、過量の薬が効いたのか、ようやくその日の晩に発情期はおさまりをみせた。  ――結局、発情期期間中、夢川が俺のうなじを咬むことはなかった。    俺が寝室に引きこもって発情に堪えている間、夢川は一人で病院を受診した。  せめて発情期が終わるまでは一緒にいたいという夢川を、「行ってこい」と強引に家から追い出したのは俺だ。  もう夢川に負担をかけたくなかったし、やはり夢川の身体が心配だった。  もちろんフェロモンのことも気になってはいたが、他にもなにか異常があるかもしれないことを思えば、受診は早いに越したことはない。    その夜、診断結果を携えて帰宅した夢川と俺は食卓で話し合った。  発情期が終わって体力を消耗していた俺に、雑炊を食べさせながら夢川が医師から聞いてきたことをわかりやすく説明してくれた。 「性フェロモン失調症…?」  聞きなれない病名を、俺は繰り返した。 「はい。性フェロモンがなんらかの要因で発現しなくなる病気だそうです。精神的なショックだったり身体的な要因だったり…、めったにないことですが、これまでにいくつかの症例もあるそうです。ただ、根本原因は解明されていないのが現状で、治療方法も確立されてません。残念ながら症例が少なすぎて、研究もなかなか進まないという話でした」 「そんな……」  俺はショックで言葉を失った。 「……すみません」 「――」 「でも、別れる気はありませんから」  強い決意をこめて俺を見つめてくる夢川にかっとなって怒鳴りつけた。 「当たり前ですよ! なに言ってんですか!」  へにょりと夢川の眉が下がった。 「……私はαとして不能になってしまいました。君に申し訳がたたなくて…。発情期にも途中でへばって最後まで付き合えないし、正式な番契約もできそうにないし…。でも――、」  小さな声で彼は続けた。「君にだけは捨てられたくない」と。 (あぁ…この人は…)  気にしていないようでいて、ずっとトラウマを抱えていたのだと俺は今になって目の覚める思いだった。  αだからって、傷つかないわけじゃないのだ。  運命の番を探し、何度も愛を乞い、何度もその愛をさまざまな形で踏みにじられてきた夢川。  俺は、どこかそれに対して自業自得だと冷めた目線で突き放していたように思う。  近くにいるのに見向きもされない俺も苦しかったが、振られ続けた夢川だって苦しかったのだ。  ……一度などは凍死しかけ、あわやという目にもあっている。  いつだって夢川は、一つ一つの恋に真剣だった。一生懸命に相手を想っていた。  俺の方こそなんだか申し訳ない気分になってしまった。 「……昨日も言いましたけど、なにがあろうと捨てる気はないですよ」  まったく…、この人ぐらいだろう。  なにもかもに恵まれたαのくせに、「捨てないでくれ」と俺みたいな…取り立てて美しくもなければ特に秀でたところもない地味で平凡なΩに縋りついてくるのは。  でも、――そんなちょっと情けないような部分もひっくるめて、俺は夢川が愛しくて仕方ないのだ。 「ちょっと早いけど、俺たちにはもう子供もいるし、熟年夫婦みたいな関係になればいいじゃないですか。セックスレスの夫婦なんてこの世にはごまんといますよ。あまり気に病まないでください。……他に頭なんかは大丈夫だったんですか?」 「……聞き方がひどい気もしますけど、頭部CTでは異常は見られませんでした。それに、セックスは普通に出来ます。セックスレスになる気はないですから。男として不能になったわけではないので」  なぜか勢い込んで主張され、俺は口に含んだ雑炊に()せそうになった。 「は…はい、リョウカイシマシタ」 「ただ、君には、また抑制剤を飲んでもらうようにしなければなりませんけど」 「それは、かまわないです。元々さして負担なことではないですから…」  ほとんどのΩが三か月に一度訪れるきつい発情期に悩んだり苦しんだりしている中、俺の妙なΩ体質はそういう意味ではたぶん恵まれているのだろう。  ただ――、ただ一つ悔やまれるのは、夢川と番契約ができなかったことだ。  番の契約には、フェロモンが大きく影響するらしい。  発情中に契約が行われるのもそのためだ。  医者の見解では、今の…フェロモンが欠乏した夢川の状態で首筋を咬んでも契約するのは無理だろうという話だった。 (罰が当たったのかな…)  へんにもったいぶって、意地を張って、――俺自身にはそんなたいした価値もないのに求められることが気持ちよくて…、ずっと、番になることから逃げていた。  そう。  逃げていたのだ。  もし。  もしも。  夢川に、「運命の番」が現れたら自分はどうなるんだろう、とそれが怖かった。  自分が夢川の「運命」だとはどうしても思えなかったから。  俺の「運命」は夢川だけど、夢川の「運命」は違うのではないか。  そんな疑いが脳裏にこびりついて離れなかった。  本来、「運命の番」というのは双方向であるはずだが、――世の中には一方向の「運命」だって絶対にないとは言い切れない気がした。  そもそも自分はΩとして不完全だから余計にそう思えた。  フェロモンは弱いし、発情期だっていまだに不安定だし、――期間だって短い。  本来なら一週間は発情し続けるところを一日で終わってしまうことすらあった。長くて五日、いつもはだいたい三日ほどで鎮まるのが常だった。  今回だって、一度発情してしまえば抑制剤を飲んだところで普通だったら治まらない。  緊急用に作られた即効性の抑制剤もあるにはあるが、副作用がひどく、正式な認可はたぶんまだ下りていなかったはずだ。闇ルートではすでに出回っているらしいが、俺はもっていない。  Ωの知り合いには羨ましがられる体質だけれど、――言い換えれば、αを誘う魅力に欠けるということでもある。 (実際、出会ってずっと近くにいても、歯牙にもかけてもらえなかったし…)  そんな自信のなさからくる不安が、ずっと心の片隅に落ちない汚れのようにこびりついていた。  αは……番となったΩ以外のΩとも、新たな番契約を交わすことができる。  もちろん、昔ならともかく現代社会では、一旦一人のΩと番契約を交わした場合、たとえαといえども別のΩと新たに番契約を結んだり、複数のΩを囲い込んだりするのは倫理的にも決して褒められた行為ではない。たくさんのΩをすることが一種のステイタスとして持て(はや)された時代はとうの昔に終わりを告げている。  それでも、――番であるαから番契約の解消を言い渡されるケースがまったくないわけでもなかった。  Ωにとって番となったαは生涯唯一の相手となるが、αにとってはそうではないのだ。  番の契約は、Ωの側からみると実に不平等な約定なのである。  そんな…、ただでさえ不安定な(いしずえ)の上に築かれた関係であるところに――…  ましてや「運命の番」などという絶対的な存在が現れたなら、たとえ他のΩと婚姻していたって、番契約を交わしていたって、……なにもかもを犠牲にしても、すべてを捨て去っても、唯一人の相手として惹かれ合った末に添い遂げたいと望むのは必定であると云えた。  ――俺は、それがなによりも恐ろしかった。 「運命の番が一方通行なケースってあるんでしょうか?」  以前、同じΩ性の先輩に聞いてみたことがある。  俺の初恋の人、――雛森(ひなもり)(あおい)元風紀委員長だ。  彼とは今も交流があり、なんだかんだと理由をつけてはときどき会いに行き、相談に乗ってもらったり、食事を共にしてもらっている。  一見気難しそうに見えるが、雛森委員長は昔から面倒見が良く、寛容で、一本気な、俺が尊敬してやまない憧れの人である。  その時も、委員長は忙しい合間を縫って俺の食事の誘いに応じてくれていた。  俺が投げかけた質問にかすかに眉を寄せ、対面の席からこちらをまっすぐに見返す視線の(つよ)さに、俺は久しぶりに背筋が伸び、身が引き締まる心地になった。……この人の眼差しは昔も今も変わらない。まるで(やいば)のように鋭く、そして真摯だ。人によっては、その双眸を恐ろしくも感じるだろう。  けれど、俺にとっては、――今もなお頼もしくも慕わしい気持ちになる眼差しであった。  俺の通っていた高校で、風紀委員長を務めていた彼の下で俺は働いていた。  俺自身はとくに役職付きだったわけでもなくただのヒラ風紀委員の一人でしかなかったけれど、自惚れや勘違いでなければ…なにかと目をかけてもらっていたように思う。  ――それはひとえに俺がΩだったからで、そもそも風紀に勧誘されたのもそれが大きな理由だったりした。  俺が学生の頃は、長い間ずっと人類の底辺として扱われてきたΩの人権が、活動家や保護団体の働きによりようやく法制化し、まだ十年余りしか経っていない時期だった。  だから、Ωへの蔑視も風潮として根強く残っていたし、学生だからといって周りに人権保護の教育が行き届いているわけでもなかった。人に植えつけられた差別に対する意識を変えるには、長い年月と根気強い働きかけが必要で…たとえ年月を経たところで根底に根付いたものをすべて覆すのは難しくあった。  それでも世間では「Ωにも他の性種と同等の権利を」という考え方が広まり、一方で深く浸透しはじめてもいた。  人々への、とても大きな意識改革が行われ、Ωをとりまく世界の変革が少しずつ…だが着実に進む中、俺は青春時代を過ごした。  しかし、世界が変わっても、Ω自身の特異な体質が変わるわけではなかった。  ……多くのΩがそうであるように、俺もまた自身の性を疎ましく思ってもいたのだ。

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