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運命のつがい ⑦
自分がΩであることを心の底から受け入れているΩなど、きっとほとんどいないのではないかと俺は思う。
――それほどに、Ωという性はΩ性をもつ者の人生そのものに、重くのしかかる「性」なのだ。
もちろん中にはΩという性を武器にαとも渡り合うような強者 もいるにはいるが、それはほんの一握りに過ぎない。
俺もまた自分がΩであると、ごくごく身近な人間にしか明かしていなかった。
だから学生時代の友人のほとんどは俺がβだと思っていたはずだ。
Ωには性種秘匿の権利があった。
ただ、……風紀委員長である彼には俺がΩ性であることを知られていた。
学内にいるΩ全員を把握していることが風紀委員長の特権でもあったからだ。
もちろんそれはΩ性を持つ生徒が、学内で性犯罪に巻き込まれないように注意を払うための措置として使われるべき権利であった。
そして、彼はそれを文字通り正しく利用した。
風紀の強固な傘の中で、学内のΩを守るシステムを作ったのである。
俺は彼に勧誘されて風紀に入った。
風紀には、俺の他にも数名のΩが在籍していた。
彼のすごいところは、Ωをただ守るだけじゃなく俺たちにきちんと仕事を与えたことだ。
デスクワークが主だったが、俺たちはそこで自分たちが決して「蔑まれる性」ではないことを実地で学んだ。
他の性種の者たちと協力して、同等に働くことが可能である、と知ることができた。
Ωへの白眼視は依然として残っていたし、なによりもΩ自身が自らの性を認められずにいる者が多い。
確かにΩであることは、一種の爆弾を抱えながら生きてゆくことに等しく、ハンデとしても大きいけれど、それはそれとして受け入れ、上手く付き合ってゆく方法を模索する場を、雛森委員長は――寄る辺なかった俺たちに、居場所を与えてくれたのだ。
将来を見据え、進路を考えなくてはならない時期に、そういう経験を得たことはとても大きな力と自信を俺にもたらした。
Ωだからといって何も諦める必要などないと、言葉ではなく経験として俺たちに教えてくれた人だった。
委員長は俺の憧れであり、――とても特別な人でもあった。
何度も言うようだが、初恋の人なのだ。
委員長は今でも惚れ惚れするほどカッコいいけれど、昔もとてもカッコよくて……惚れるなという方が無理な話だった。イケメンというよりも、とにかくカッコいいとしか言葉が浮かばない。軽さや浮ついたところのない、きりっとした日本男児的なカッコよさだ。やっぱり今でも好きだ。もちろん今現在の俺が一番好きなのは夢川だから、浮気じゃない。……たぶん浮気じゃないはずである。
俺の目に、彼はすべてを兼ね備えた眩いばかりの優れたαとして映っていた。
見目も良いが、その生きる姿勢のようなものに、どうしようもなく惹かれた。
(見事に玉砕したけどな…)
――今となってはいい思い出である。
ちなみに、彼が実はαではなく俺と同じΩだったと知ったのは、告白した後のことだ。
それを知ったときはびっくり仰天して腰が抜けた。でも、風紀委員の半分以上がひっくり返ったり雄叫びをあげたりしてたからリアクションとしてはマシな方だった。
まさか委員長がΩだったなんて誰もきっと想像すらしていなかったから、あの時は蜂の巣をつついたように学校中が騒然となった。そして、前代未聞のΩの風紀委員長が誕生したことで、委員長は生きた伝説 になったのである。もちろん今もなお語り継がれているレジェンドだ。
しかも、国内ではじめて弁護士資格を取得したΩとして、委員長は高校だけではなく日本国内でもレジェンド化していた。
そんな伝説級の弁護士先生にする相談にしては俗っぽいというか、些末というか…ごくごくプライベートな部類の内容だったが、委員長は心持も伝説級なのでいつだって親身に耳を傾けてくれるのだ。
……ただ、言葉数は少ないので、この時も俺の「運命の番が一方通行なケースってあるの?」という子供っぽい質問にも、「どういう意味だ?」という訝しげな視線を返してくるのみだったのだが。
無言で先を促された俺は、頭の中で考えをまとめながら詳しく説明した。
「……運命の番に出会うこと自体、確率的に少ないと言われています。だから、あまり参考事例なんかもないのでしょうけど……、そもそも「運命」って曖昧な概念ですよね。なにをもって運命とするのか…みたいな」
委員長は黙って聞いている。
「体がどうしようもなく昂 ったり、欲しくなったり、…えっと…そのぅ…アレが良かったり…?」
初恋の人にむかってする話じゃないなと気恥ずかしさを感じつつも、俺は続けた。彼ならば、確かな答えをくれるような気がした。この胸の中のもやもやを拭い去る、明瞭な答えを与えてくれるのではないかと期待した。
「相手にどうしようもなく惹かれる…ってことだとは思うのですけど、恋愛感情があれば…わりと普通なことじゃないかな、なんてことも思うんです」
さすがに俺は誰かさんと違って、運命に出会ったときには祝福の鐘が鳴るとか天使がラッパを吹くとか体に電流が走るとか雪が降るとか花吹雪が舞う…なんて、そんな夢見がちなことは考えたりしていない。
「運命」という言葉は、どうにも信用ならない気がするのだ。
俺は「運命」を怖れつつも、それに対して懐疑的でもあった。
「世の中には、『一目惚れ』なんてものもありますし」
そこでようやく委員長は口を開いた。
「自分の感覚が、――あるいは相手の認識が、名ばかりの錯覚じゃないのか、ということを懸念しているのか?」
「そう…です」
「夢川を信じられないということか」
――あぁ、これだからこの人は…。
俺は物事の本質を真っ向から言い当てられ、目を伏せ、肩を落とした。
……そうだ。結局は、そういうことなのだ。
俺は、夢川を信じきれない。
「難しいな…」
「……そうですね。信じることは難しいです」
「いや、信じることはさほど難しいことではない。むしろ容易いだろう。人は信じたがりだからな」
「え?」
「難しいのは、――覚悟を決めることだ」
俺は驚いて委員長を見た。
――やわらかな眼差しで俺を見つめている委員長と目が合う。
「なにがあっても、信じた相手に責はないと覚悟を決めることだと思う。盲目的に信じるのも一種の自己責任だからな」
厳しいけれど、清廉で情の深い言葉だった。
……きっと委員長はそうやって相手を愛してきたのだろう。それは潔く、でもどこか哀しみも宿していた。
「覚悟…」
覚悟を問われ、俺はそのとき委員長になんと答えただろうか。
――思い出せなかった。
夢川が「性フェロモン失調症」と診断された後、どうなったのかというと、――実は俺たちの生活にこれといった大きな変化はなかった。
元々、俺のフェロモンは薄いし、発情期も稀なので(よく二人も子供ができたなと呆れられるというか感心されるが)、実生活に影響を及ぼすほどではなかったのである。
俺たちは、まるで同性婚をしたβカップルのように日々を過ごした。
――ただ、日常生活に変わりはなくとも、心情的に夢川は複雑な想いを抱いていたようである。
ある時、子供を寝かしつけた俺に彼はぽつりと零した。
「αであるのか、βであるのか、どっちつかずで不安な感じがするんです」
確かに、今の夢川の状態を考えるとβに近い状態なのだろう。
だが、身体的にも精神的にも、夢川は生粋のαだ。
αの親から生まれ、αとしての教育を受け、αとして生きてきた。
そんな夢川が、存在意義 の証明ともいうべきαフェロモンを喪失し、寄る辺ない気持ちになったとしてもおかしくはない。
俺はソファーに座る彼の隣に腰かけ、そっと寄り添った。
下手な慰めの言葉よりも、こんなときには人肌の温もりの方が良い気がして。
夢川の膝に置かれた手を取り、握りしめる。
骨ばった、三十代の働く男の手だ。
――この手に初めて触れたのは、まだ高校生だった頃。
身長に見合った大きな手だったが、まだ若者らしい瑞々しさと潔癖さがそこにはあった。
その、いかにも綺麗なものにしか触れてきませんでしたと物語るような上流階級然とした手が、俺の汚れた顔を彼の所持していた清潔感あふれるハンカチで拭ってくれたものだから、俺は自分の仕出かした惨劇(制服への鼻水付着+なすり付け)に恐れおののいて一時的に止まっていた涙が再び決壊してしまった。
人は泣いているときに優しくされるとどうして益々泣けてきてしまうんだろう…。
しかし、一旦あふれ出した涙は、自分の意志ではなかなか止まってくれなかった。
どうしていいかわからず謝る俺に対し、困った様子を見せた夢川にますます情けなくなった。……いっそ立ち去ってくれたらいいのに、と思う俺をしかし夢川はなぜか放置することなく、それどころかポケットから飴の包みを取り出してなかなか嗚咽の止まらない俺の口へ、ころんとその中身を押し込んだものだから、――あんまりびっくりして、今度こそ涙も止まった。しかし残念なことに、実は涙よりも優先して止まって欲しかった鼻水は止まってはくれなかった。車と一緒だ。鼻水もすぐには止まれない。
飴を舐めながらズビズビと鼻を鳴らす俺に、夢川はティッシュまで提供してくれた。普通の高校生男児のポケットにはエチケットティッシュなど入っていない。少なくとも俺のポケットにはハンカチもティッシュも入っていなかった。その点、夢川は昔から几帳面だった。
もらったティッシュで遠慮なく鼻をかんで鼻の通りが良くなると同時に、肺一杯を満たした甘酸っぱい香りが、俺の心をやさしく慰撫した。
――それは、俺の運命が決定付けられた瞬間だった。
今は、こんなに近くに寄っても、夢川の香りが俺の胸を満たすことはない。
俺は、…俺たちは二人で、これからこの喪失感とちゃんと向き合っていかなければならないのだ。
夢川の手はすっかり冷え切っていた。
そろそろ暖房が必要な季節だ。
でも、きっとその手の冷たさは気温の低さだけがもたらしたものではないだろう。
きゅっと握り、俺の温かさを分け与える。
せめて、同じ温度になればと願って。
そんな俺の行動を黙って見守っていた夢川だったが、はっと夢から覚めるような顔をして、俺を見た。
「君は…ずっと、こんな心許ない気持ちでいたんですね」
俺は静かに夢川を見返す。
……笑おうとして、失敗した。
「今は、もう、平気ですよ」
嘘だった。
今でも、それは俺の引け目であり、コンプレックスだ。
――もしかしたら、夢川と番になれたら、消えていたかもしれないが、今それを言っても夢川の負担が増すばかりである。
たとえ、夫夫 だって、言わない方がいいこともある。
むしろ、大切に思うからこそ、秘めて、伝えない選択をすることだって、確かにあるのだ。
夢川は基本的には素直な性質だから、俺の言葉をそのまま受け取ったようだった。そういうところが好きだし、助かってもいる。いちいち腹の探り合いをするような関係は疲れるだけだ。
「……私は、君のフェロモンがわからなくなったのがなによりもつらい」
「どんなんですか? 俺のフェロモンって」
思えばそんなことを誰かに訊いたのははじめてのことだった。
夢川に聞いたこともなかった。
自分からフェロモンの事について口にするのは避けていたから。
でも、今なら聞ける気がしたし、聞きたいと思った。
「ミントの香りに似ています」
「…ミント? って、あの歯みがき粉やガムとかに使われる?」
「そうですね。芳香剤としてよく使われるアレです」
「ミント…」
ちょっと微妙だ。
嫌な匂いではないが、ちまたに溢れすぎていてなんだか個性がない気がした。
……平凡な俺には似合いだろうけど。
「言い訳のように聞こえるかもしれませんが、私ははじめそれがフェロモンの香りだとはわからなくて、君がフリスクかガムの愛用者だと思ってました」
「実際、よくある香りですからね……」
「今は逆に、どうしてわからなかったのか不思議です。……いい匂いだとは、出会った時から思っていましたから。おかしいですよね。出会った時、君は泣いていてガムどころじゃなかったのに。――君の匂いが恋しいです」
「明日、ミントのガムを買ってきます」
「……そういう話をしているんじゃありません」
むくれた顔をする夢川に、俺はくすくす笑いを零す。
不貞腐れていたはずの夢川もつられて笑いだした。
――大丈夫。
喪失を抱えながらでも、二人ならこうやって笑いあえる。たとえ番 えなくとも、寄り添いあって、ずっと、一緒に穏やかなときを過ごしていける。
俺は、少しだけ未来に希望を持った。
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