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運命のつがい ⑪
「『運命の番』なら治せるんですね」
まるでロボットみたいに冷えた声が、自分の口から転がり出た。
確認は、確信でもあった。
「ああ、まず間違いなく」
端的な答えに、やはりロボットのように頷く。
今、自分の感情は不要だった。
そんなものは、今、いらない。
大事なのは、――大切なのは……、少しでもそこに希望や見込みがあるかないかだけだ。
可能性があるのなら。
それに賭けたいと思うのは間違っているだろうか…。
今は自分の感情よりも夢川の身体を治すことを優先するべきじゃないのか?
――夢川を想うなら。
αフェロモンを発さなくなった自分を、夢川は不安がっていた。
αであるということは、俺たちが考えるよりもきっと彼らにとっては重要なことだ。
それに、夢川が性フェロモン失調症と周知されれば、他のαに侮 られ、足をすくわれる要因になったりもするだろう。
日々、社のトップに立って采配をふるう夢川には、明らかにマイナスだ。
αじゃなくてもいい、夢川が夢川でありさえすればいいと、俺がいくら思っていても、そんな綺麗ごとが通じる世界ではない。
そうなったとき、きっと夢川はつらい思いをする。
「……わかりました」
俺は始祖の男にそう返し、視線を夢川に向けてなるべくなんでもないことのように言った。
「探してみましょう。――あなたの『運命の番』を」
夢川の目が大きく見開かれる。
「な…にを」
「俺がきっと見つけてみせます」
「何を言っているんですか、君は…!」
――本当に、なにを言っているんだろう、自分は。
夢川の瞳に責める色を見つけてはっとする。
今、自分が口にしたのは、夢川に対するひどい裏切りだった。
(なにがあろうと、二人で寄り添いあって生きていくって、そう思っていたはずなのに……)
もし、運命を見つけてしまったら、そうしたら、……自分たちはどうなる…?
俺はひどく混乱した。
混乱して、どうしようもなくなって――
「ッ…失礼しま…っ」
俺に伸ばされかけた夢川の手を振り切って、部屋の出口へ向けて走り出す。
同席者に断りもなく中座することは非礼にあたるが、これ以上その場に留まり続けるのは無理だった。それこそみっともない姿を見せることになる。
「このバカ! なんでおまえはそうデリカシーってもんが欠けてんだ!」
背後で一颯が駿を叱る声が聞こえたものの、俺の足を止めるほどの力はない。他人を気遣う心の余裕など今の俺にはまったくなかった。
……決壊寸前の涙腺を保ち、感情のままに取り乱すのを堪えるのが精一杯で。
スイートルームを飛び出し、廊下の先にあるエレベーターに早足で向かう。
自分でも制御不能に感情が入り乱れ、どこか一人になれる場所に行きたかった。
自身への失望と、夢川への申し訳なさと、そして……突き付けられた真実に心が悲鳴をあげていた。
(やっぱり、俺は違ったんだ…)
怖れていた懸念がついに現実のものになってしまった。
『運命』に夢を見ていたのは、夢川ではなく俺の方だった。
ずっとずっと運命ならいいのに、とそう思っていた。
――『運命』だと、信じていたかった。
でも、やっぱりそうじゃなかったんだ。
きっと夢川には俺じゃない『運命』が存在する。
(この世界のどこかに)
――夢川がずっと求めていた『運命』が。
――夢川を治すことができる『運命』が。
(探せば…見つかるのかな…?)
探すべきなのか、探さない方がいいのか。
きっと夢川は探さない。
――俺がいるから。
でも、探さなくても、夢川がいつかどこかで『運命』と偶然出会う未来が来るかもしれない。
そして、もし『運命』が見つかったら――
夢川はきっと『運命』に惹かれ、愛するだろう。
あれほどに焦がれていた『運命』なのだ。
きっとその魅力に抗えやしない。
なにより…、今の夢川は『運命』を必要としていて、――抗う意味もない。
そうなれば…俺は、夢川と別れるために、やはり一人で家を出ていかなければならないのだろうか。
両親が存命である場合、αとΩの離婚時にΩへ親権が渡ることはほとんどなかった。余程の事情がない限り、経済面などを考慮されるため、子供たちはα方の親によって育てられるケースが多かった。Ωに養育権が渡ることは滅多にないのだ。
(それとも、頼み込めば…家にいることを許してくれるかな…)
責任感の強い夢川なら、もしかしたら離婚という話には至らないかもしれない。
だが、同じ家で、あるいは別宅で、『運命』と過ごす夢川を待ち、昔のように……別の誰かを愛する姿を見続けることが、はたして今の自分にできるだろうか…?
――考えただけで身を切られるような痛みが走った。
一度は愛された記憶が、きっと自分をより一層くるしめるだろう。
(なら…、出ていくのか?)
夢川を置いて、あの子たちを置いて……?
どこへ…。
俺はどこへ行けばいいのだろう――たった一人で。
『なにがあっても、信じた相手に責はないと覚悟を決めることだと思う』
凛とした美しい言葉が、脳裏に蘇る。
(委員長……、俺には覚悟が足りませんでした…)
あの人のように、強くありたいと思ったけれど――……苦しくて苦しくて耐えられそうにない。きっと俺は夢川と別れたらダメになる。
「待ってください!」
部屋を飛び出した俺は、エレベーターホールに辿り着く前に、追って来た夢川に捕まった。
腕を引かれ、その胸の中に抱きこまれた衝撃で涙が零れ落ちた。淡い色調のグレーの絨毯が敷き詰められた廊下に、点々と黒い水玉模様ができる。綺麗な染み一つない美しい敷物が、俺の涙で汚れてしまった。
「うっ…ううぅぅ…っ、うく…ひ…ひっく…うううう~~っ」
静かな廊下で、もういい年をした大人なのに、辺りも憚 らず、俺はみっともなく声をあげて泣きだした。そんな俺の頭上に、夢川の淡々とした声が落とされる。
「外で泣くのはやめてください」
俺の双眸から、蛇口の壊れた水道水のように涙が勢いよく流れだす。頬を伝うその涙の熱さにくらべたら、ずいぶんと冷えた声音だった。
「……! こんな…ところでっ…泣きだ、して、悪かっ…たな! どうせ…っ…俺、はっ、あんたに…相応しく…ないんだよ! 出来損ないの、Ωだし!」
自分で言って自分で傷ついた。
最低だ。
卑屈な物言いをする自分が、心底うざったく嫌だった。
人前で醜態をさらしたくなかったから部屋を出たのに、これでは台無しだ。
きっと夢川だって呆れてる。
でも、どうにもならなかった。
コントロールが効かない。
自分の力不足や不甲斐なさが、なによりも許せなかった。
(どうして俺じゃないんだ…っ)
かつて――、
とあるΩは、「Ωの苦しみをなに一つ知らないくせに偉そうにするな」と俺を罵 った。
また別のΩは、「Ωのくせにαを誘うこともできないのか」と俺を嘲 った。
どちらのΩも、俺が夢川の秘書として傍にいることが目障りで気に食わなかったらしい、――彼らはかつての夢川の恋人たちだ。
悔しくて悔しくて。
αの秘書だからっていい気になるなと言われて。
身体で仕事をもらったんだろうと、あらぬ疑いまでかけられて。
それでも夢川がそいつらを大事にしていたから、何を言われてもなるべく冷静に対応し、我慢していた。
――夢川が、彼らを望む限りは。
あるいは、彼らが夢川を裏切らない限りは。
どんな蔑 みや罵倒にも黙って耐えたし、絶対にそいつらに涙を見せたりはしなかった。
仕事上のパートナーは自分だというプライドが、俺を支えていた。
だが、今の俺にはそれもない。
今の俺にあるのは、夢川への、子供たちへの想いだけだ。
昔の方がよっぽど強くいられた――。
夢川に依存し、俺はこんなにも弱くなってしまった。
「俺じゃ…ダメなんだ」
ただのΩである俺は、運命にはきっと太刀打ちできない。
運命に負ける。そして夢川を失う。
涙なんか見せたくないのに、溢れて止まらなかった。
失うのが怖い。失いたくない。
――バカみたいに、好きだから。好きだったから。
夢川という人間が、俺はどうしようもなく好きなのだ。
たとえ、愛されなくても、求められなくても、長い長い年月を経ても尚離れられないほどに、――夢川が好きだった。
真面目で潔癖で一途で純粋で、それゆえに騙されやすく独りよがりなところもあったけれど、……どんなΩに対しても誠実に振る舞い、何度裏切られても、また愛した相手をちゃんと大切にできる強さと優しさに恋焦がれ、あこがれた。
運命というだけで夢川に愛され大切にされるΩが、羨 ましくてたまらなかった。
「外で泣くのは許しません」
夢川らしからぬきつい口調でぴしりと厳しくとがめられ、打ちのめされる。
「君の泣き顔を見ていいのは、私だけですから。他の誰かに見られるような場所で泣かないでください」
「ふぅううううぇぇぇ…うっうううぅぅぅっ」
――余計に涙が止まらなくなった。
「俺…はッ、あんた、の…運命じゃ…ない、です…よ」
最後は尻すぼみになったが、俺はついにそれを口にした。
言いたくなかった。
自分でそれを認める以上に、夢川には言いたくない言葉だった。
運命だと思っていた。
自分の直感を信じたかった。
でも、それは俺の単なる思い込みで、願望に過ぎなくて、……やっぱり違ったんだ。
俺がもし夢川の運命なら、先日のヒートのときに、夢川は治っていたはずだ。あの生意気そうで偉そうな始祖がそう言った。
――俺が『運命』ならよかったのに。
でも……
(俺が運命じゃないから…なかったから、駄目なんだ…)
完全に打ちひしがれ、俺はすっかり自信喪失していた。
「――運命かどうかがそれほど重要ですか」
いやに冷静な言い草が俺の神経を逆なでる。
俺はそのセリフに切れた。
「ずっと『運命の番』に拘 っていたのはあんたの方じゃないか! それに『運命の番』ならあんたを治すことだってできる!」
心の中がぐちゃぐちゃだった。
嫌いだ。
運命を探す社長なんか嫌いだ。
ずっとそれを見せつけられてきた俺に、すべての過程をすっ飛ばして安易にプロポーズなんかしてきた社長なんか大嫌いだ。
「あんたが、ずっと…ずっと…運命を探していた…から!」
十年以上心に秘めていた鬱憤がついに爆発した。
俺はもう知っている。
夢川が殿塚会長にそそのかされて俺にプロポーズしたことを。
……出産後に会長自らが明かした。
そして珍しく謝られた。
俺がほぼ無理矢理に近い形で関係を強要されたあげく妊娠し出産したことに対して、罪の意識でもあったのか、焚きつけるようなことをしてすまなかったと珍しく頭を下げられた。
でも、謝ってなど欲しくなかった。
謝るくらいなら、そんな真相など黙っていてくれた方がよっぽどありがたかった。
会長は俺の恋路を邪魔するのがとことん好きらしい。
俺があの人に恋慕したことがそんなに気に喰わなかったのか。心が針穴のように小っちゃい男である。
「あんたが…ッ、あんたが全部…ッ!」
その腕から抜け出そうと身をよじって暴れ、涙と嗚咽に邪魔されても詰 り続ける俺を、しかし夢川は決して離そうとはしなかったし、言い返しもしなかった。
代わりに、片手で俺を逃がさぬようにしっかりと拘束をしながら一本の電話をかけた。
「部屋を一室リザーブしてください。……ええ、……わかりました。こんな状態の彼を見せたくないのですが。――……仕方ないですね、それなら。……わかりました、戻ります。……では、そのように」
通話が終わってもまだ涙の収まらない俺に、夢川が無情に告げた。
「戻りますよ」…と。
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