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運命のつがい ⑬

 * * *  俺たちが戻った時、スイートルームのリビングには誰の姿もなかった。  みんなはどこへ、とその姿を探して一瞬足を止めた俺を、夢川はかまわず奥へと引きずってゆく。 「…あっ」  跡が残りそうなくらい強い力で握られた手首が痛くて、また新しい涙が頬を伝った。  いつも優しく丁寧すぎるほどに丁寧に触れてくる夢川だったから、乱雑な扱いをされることに慣れていなかった。  奥にはメインベッドルームがあり、広いベッドと天井まで届く大きな窓に出迎えられた。  高層ホテルの窓からはきっと美しい夜景が見下ろせるだろうが、俺たちはそこから下界をのぞむ間もなくベッドにダイブする。  夢川がすばやくベッドサイドランプを点けた。  フットライトのみが灯されていた薄暗かった部屋に、あたたかな色合いの光が広がり、夢川の姿を浮かび上がらせる。  夢川も俺も場所柄と会う相手の立場を考慮し、質の良いスーツに身を包み、今回の面談にのぞんでいた。  家でもどこでもスーツ姿でベッドに押し倒されたことなどない。  最初の時を除けば、いつだって夢川はこちらの意向を優先し、手順を踏んでくれていた。だから普段は、身ぎれいにしてから行為に及ぶことがほとんどだった。しかも、こんな他の誰かが近くにいるかもしれない場所でしたことなど一度もない。  置かれた状況の異質さに、俺は怯えた。 「しゃ…しゃちょぅ…」 「名前で呼んでください」  頼りない声は、硬質な声によって遮断される。  名前で呼ぶのは、肌を合わせる時だけ――、そんな馬鹿げたルールにこんなときでも縛られて、俺は首を横に振った。  姿は見えなくとも、まだスイートルームのどこかに殿塚たちがいることを思えば、夢川の求めに応じる気にはとてもなれない。 「晋」  なのに、夢川はなんの躊躇いもなく俺の名を呼んだ。  すすむ…とその名を呼ぶとき、いつもは熱をはらんで甘く響く声が、今日は冷え冷えとしていて、俺の心は今にも凍えそうになる。  そんな風に名前を呼んでほしくなかった。 「私は『運命』だから君を選んだわけじゃない」  そうはっきり言われ、胸が(きし)む。  浅ましい本音を見抜かれ、一刀両断された気がした。  ――俺は夢川に『運命』だとずっと認めて欲しかったのだ。  ベッドに深く沈む俺の顔の両脇には夢川の手が置かれ、真上から注がれる強い視線が俺をそこへ縫いとめる。  自分が、まるで檻に囲われて逃げ場を失ったケモノのように感じた。夢川に囚われ、身じろぎ一つ、声を出すことさえできないそんな哀れなケモノ。  ――いつもの夢川と違う。  αであることを知らしめるような威圧感にさらされた俺は、完全に夢川の支配下にあった。 「君が『運命』でも『運命』じゃなくても、失えないと思ったから、だから君にプロポーズしたんです」  紡ぐ言葉は平坦で、 「君しかいないと思ったから、私は君を抱いた」  怜悧で、 「誰にも渡したくなかった」  傲慢で、 「なのに――」  苦悩に満ちて、 「君は他の男に抱かれても平気なんですか? 私が他のΩを抱いても平気なんですか?」  苛烈な、 「君は――私以外の(オス)にココをひらいて、受け入れ、(たね)を注がれることを望むのですか?」  灼熱をはらんでいた。 「違う! 好きで…! そんなこと、好きで望むわけないじゃないですか!!」  夢川の迫力に飲まれそうになっていた俺は、しかし、両足の狭間のきわどい部分に手を差し入れられたことで我を取りもどした。 「なら、私のためだと言って逃げるのはやめてください」  俺の否定は耳に届いたはずなのに、それでも夢川の雰囲気は頑ななまま、崩れない。 「――君が、そんなに『運命』を気にするなら、探してもいいです」 「え…」  夢川自身の口から運命を探すと聞かされ、俺の心臓は止まりかけた。 「探して、もし見つけたら……、君の目の前で――私の『運命』を殺してあげましょう」  だが、想像を絶する夢川の考えに、止まるのは俺の心臓ではなく『運命』のそれだと思い知らされる。夢川は本気だった。本気でそれを実行するつもりだった。目を見ればわかる。伊達に長年そばに居たわけじゃない。 「それなら、もう、気に病むこともなく、ずっと私のそばに居てくれるのでしょう?」  柔らかな微笑が、――狂気のふちを俺に覗かせた。 「や…めてください、俺はそんなこと望んじゃいない!」 「なら! 二度と私から逃げようとするな!」  血を吐くような叫びだった。  それは俺の胸を抉って、心臓を握りつぶさんばかりの激しさで揺さぶった。 「二度と! 何があっても、他の男なんかに抱かれようなどとするな!」 「――ッ」  出尽くしたと思っていた涙が再び溢れ、世界を歪ませた。  苦しそうな、辛そうな、普段は端然として涼やかな夢川の顔も世界と共に歪む。 「ううううううぅぅぅっっ…ふぅぅううううっっ」  堪えても堪えても唸り声のようなみっともない嗚咽が歯と歯の隙間から漏れ出た。  感情が滅茶苦茶に荒れて、申し訳なさと嬉しさと愛しさと悔しさと不甲斐なさと怒りと…すべてがごっちゃになって涙として流れた。 「っ…お…れ…! おれ…、ずっと…、不安…でっ、信じ…られなっくて…! こどもも…いるのに…っ、いつか…、ぜんぶ…! な…くなって、しまうかも…って…、ばかみたい…に…!」  いつもいつもそんなことばかり考えていたわけじゃない。  幸せは本物で。  恵まれていることに感謝してもいた。  だが、幸せだからこそ、――怖かった。  光が強ければ強いほど、暗い影も濃くなった。  慌ただしく日常を過ごす中でも、心の片隅には、常に不安がつきまとっていた。  いつか、夢川の本物の『番』が現れて、全部、一切合切が、夢のように跡形もなく消えてしまうのではないかと――。  そんな馬鹿みたいな想像に怯えていた。 「――不安なのは私も一緒です」  穏やかな夢川の声が俺の嗚咽の隙間をぬって、涙に溺れた心に明かりを灯す。 「いつか君に捨てられるかもしれないと、私も怖れていた。……君がそんな無情な真似をするはずないと知りながら、それでも私は恐れ……、無理矢理にでも(つが)ってしまおうと何度も何度も思いました」  夢川の手が俺の涙を優しく拭う。  俺が、最初に好きになった部分。  俺を慰める手はとても柔らかく俺に触れる。 「でも、できなかった。一度、私はとても君にひどい真似をしてしまっているから、たぶん二度は許されないと思っていた。君を失うくらいなら、『番』になれなくてもいいと、そう自分に言い聞かせて、……ぎりぎりの自制心で耐えていました。――後悔ばかりです」 「…一緒だ…」  ――もしもあの時こうしていたら。  何度も、そんな想いにかられたのは俺も同じだった。  夢川が事故に遭い、何度そうやって悔やみ、自分を責めたかわからない。  数え切れないほどの後悔の山に埋もれ、喘いだ。  俺たちは、二人して別々の場所を向いて悩み、苦しんでいた。 「ばかみたい…ですね」 「私が…?」 「いえ、社長も…俺も」  こうやって向き合って、ちゃんと気持ちをさらして、ぶつかり合えば良かったのに。  でも、――長い年月を悩んで、悩みぬいたからこそ、こうやって向き合えたのかもしれない。  俺にとっても、夢川にとっても、ここまでの道程は、決して簡単なことじゃなかった。  月日を超えたから、俺は夢川の苦悩の深さと誠実さを実感できたし、――たぶん夢川も同様だろう。  俺は急激に夢川への愛しさが募り、手を伸ばしてその三十路(みそじ)にしては随分とすべらかな頬に触れた。……なんとなく羨ましくなって、むにっと(つね)ってみる。 「……なにをするんですか」 「ん、なんとなく、」 「なんとなくで抓らないでください」  不服そうな口調がかわいい。俺の旦那さんはとても可愛い。 「好きです」 「…ッ、そういう不意打ちは、ずるいですよ」  俺はツンデレ属性はないつもりだが、「好き」という言葉は滅多に言わない。悔しいからだ。好きだった年月は、俺の方が断然長いのだから、それくらいの意地は許されていいはずだ。  わずかに頬を赤く染めた夢川がいそいそと俺の着衣に手をかける。 「社長? なにしようとしてるんですか?」 「? もちろんここは愛を確かめ合う行為へ移行する流れでしょう」 「理屈っぽく言えば俺が流されるとでも?」 「流されましょう」 「……ダメですよ、会長が手配した部屋で勝手なことしちゃ…、っていうか、みんな、別の部屋にいるんじゃ…」 「居ませんよ。私たちと入れ違いでとっくに退室しています。それに、殿塚にはもう許可済みです」  ――さっきの電話か。  手回しがいいというか、この幼馴染コンビの仲も不思議である。付き合いが長いのは確かだが、いまいち仲がいいのか悪いのかわからない。こんなときだけツーカーだし。 「……発情期でないと駄目ですか? 私は君が今すぐ欲しい」  熱のこもった眼差しでそう乞われて拒否できるだろうか。  ……できるわけない。

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