16 / 84
6
生気の抜けた状態で午後の授業を乗り切り、拘束時間の長いホームルームまで無事に辿り着くことが出来た。
久しく訪れた欠勤は否応 なしに独断で出勤に変わる。上司のパワハラだと訴えようにも、比較的美佳子は学生には優しいのが嫌味な点だ。テスト期間には休みを必ず入れて貰えるだけでなく、家族団欒 を掲げてクリスマスや正月にも休みを入れる。
ただし、去年の冬はクリスマス返上を余儀なくされたのは記憶に新しい。異性に対して手厳しい美佳子の、女尊男卑 さには何も言い返せず仕舞いだった。
昨日は昴のせいで機嫌を損なわれた仙崎 は落ち着き払って連絡事項を述べていた。
「最後に、市内周辺に出没している不審者についてだが……」
つまらなそうに欠伸を噛み殺しながら、昴は自分に関係がなさそうな不審者の情報を聞き流す。クラスメイトの殆どが無関心らしく、形だけまともに耳を傾けて聞いていた。
確かな目撃情報もなく、藤咲 市内の学生から帰宅途中の社会人ばかり狙われる事件は不透明さに欠ける。現実味のない世界なら浄化屋で十分だが、中身のない事件性に関心を求めようにも難しい話だった。
下半身を露出させる変質者だったら笑いのネタになるのかもしれない。あまりにも静かな教室に意識は散漫 としていた。
不審者の連絡事項で終わったのか、仙崎は足早 に去っていった。相変わらず無愛想でいけ好かない態度だ。担任よりも副担任の方が遥かに人気があるのは三組では有名な話として出回っている。
昴は重たい腰を上げて立ち上がり、ショルダーバッグを肩に提 げる。何度目か分からない溜め息を吐き出し、その場から動けずに項垂れていた。
「いやぁ。ご愁傷様なこったな」
「松村……」
明らかにげっそりとしている昴を秀吉は白い歯を見せながら快活 に笑い、大きな手で肩を叩いた。
「ごめん。今度は絶対に埋め合わせする」
「じゃあ今日は部活サボれねぇかぁ。そろそろ部長と顧問に角生えるっぽいからなー」
「……おい。サボる口実に俺を使おうしてたのが丸分かりだぞ」
悪びれもなく平謝りをしている秀吉には悪意しか感じられなかった。
冷めた眼差しを秀吉に向けている最中、聞き慣れない少女の声が教室に響き渡った。
「うぃーっす! 猿 ー!」
「あー……。国平 か」
スカートの中にスパッツを穿 いた、ちょんまげ頭を触角さながらに揺らす少女――千絵 は、誰も呼んだことがない不名誉な渾名 で秀吉を大声で叫ぶ。秀吉は呆れ混じりに反応し、困った時の癖で右耳の後ろを掻いた。
昴は千絵を知らないせいか、隣で携帯電話を弄 る良太郎に目だけで説明を催促する。
「彼女は国平千絵ちゃんなのです。演劇部の脚本・構成を担当している、ちょっとした有名人でオタク趣味の子ですよ」
疲れ眼 で説明を終え、良太郎は再び携帯電話を弄り始めた。
昴は千絵についての知識を得たのも束の間、秀吉に一方的に話し掛けている彼女の姿を遠目で見ていた。
「なんだか、松村のタイプとは真逆だな」
「それでも話を聞くのは染み付いた性分 なのでしょうね」
「寧ろ悪癖 だろうな」
元気が有り余ったハイテンションな千絵は、まるで晴天に輝く眩い太陽を彷彿とさせる。爆走列車さながらに駆け出す泰とはまた違う、明るさに満ちた少女で、傍 から見れば好印象を与えられた。
入学してから日も浅い時期に詩音とは異なる角度で注目を浴びた秀吉は、俗 に言う人気者だ。別 け隔 てなく周囲と接し、無駄に交友関係が広い。
昴は酷い悪癖だと秀吉に対して不安と共に吐き捨てる。自分にはない異質さは未だに寒気がする程の恐怖を覚えている。
愛想笑いに見えない自然な笑顔、人間性に富んだ仕草。どれを取っても不自然な点が一つもない『怪物』だ。
……松村以上の怪物は知らない。
昴は教室を出るついでに秀吉の脛を蹴り上げた。
「いっだ! 本日二度目!」
「ほら、早く行かないとペナルティ追加されるんじゃないか」
「うわ……。今日は卵が安い日なの忘れてた!」
「いや、そこじゃないわ! どこをどう捉えたらそこに達するんだよ!」
「じゃあ、今度の埋め合わせは秘蔵のビデオ鑑賞会で決定だなー」
それだけ言い残して、そそくさと秀吉は走り去っていった。
さり気なくフォローを出来たと安心したのを裏切る、悲しみに満ちたオーラが直近で放出される。
「ようやくまともに喋れたのにぃ〜!」
小学生みたいに号泣する千絵に、猛烈な罪悪感が昴を襲う。見るからに女子を泣かせている構図が出来上がり、今すぐにでもこの場から消え去りたい気持ちで一杯だ。良太郎は既に教室を出ており、冷や汗だけが栓 を切って止めどなく溢れていた。
「な、泣かないで……」
「うるせぇ! お前みたいな筋肉ゴリラなんか、その辺の体育会系モブ集団に輪姦 されろ! それで監禁調教プレイでアナルファックしろやぁ――ッ!」
「報復がエグいわ!」
「腐女子舐めんな、当馬ポジのモブゴリラが!」
キレ気味に号泣している千絵に終始圧倒される。大人しい性格とは正反対な千絵のテンションに昴は困惑しきりで、一人で対処することは不可能だ。
「松村ならグラウンドに居るからさ……ほら、行ってきたらどうだ?」
「それじゃ私がストーカーみたいだろうが!」
「そんなの俺が知るか!」
冷静な会話は不可能と判断せざる終えないと昴は早々に理解し、混沌 を極めるこの場から逃げるのが得策だ。
昴は千絵から意識を逸し、教室から全力で逃げ出した。廊下は走るなと叫ぶ教師の声を全て無視し、現実から目を背けるかに見える弱腰さで一階へとミサイルさながらに猛烈な速さで降りていった。
◇◇◇
……脱出成功だ。
息も絶え絶えになりながら裏門で立ち止まり、昴は深呼吸を繰り返す。正門だと人に捕まりやすいせいか、抜け道として最適な裏門を活用していた。
四月に桃色の花弁を咲かせていた桜はすっかり新緑に変わり、青々とした葉桜が目を瞠 る。桜道として有名だっただけに裏門から通る木々のトンネルは木陰を作るパラソルのようで、何故か物寂しい。
裏門からならグラスホッパーとの距離が近いから利便 性に長 けるが、緩やかな坂道を抜けると直ぐに歩道が現れるのは唯一好ましくない点だった。
歩道に抜け、グラスホッパーに向かおうとした途端、感じたことのない感覚が音もなく訪れる。
「――道をお尋ねしたいのですが、少しお時間よろしいでしょうか」
砂糖菓子のような仄かな優しい甘さが鼻腔 を掠め、気配もなく現れた人間を中心に、視界全体が白く埋め尽くされる。
壁が分からない、底が見えない白い箱の中に居る錯覚に襲われ、非現実的で物寂しい空間に心臓部の当たりが違和感を覚え始める。
それは一瞬の出来事だった。車道を走る乗用車の音で意識が引き戻され、昴は背後を振り返った。
……うわ。
「天、使……?」
淡いプラチナブロンドの緩やかなウェーブ掛かった長い髪を一つに結わえた、蒼い瞳の美麗な外国人の青年が、物腰柔らかく立っている。息を飲む程の美しさは、まるで白磁 の石から彫り出された彫刻さながらだ。細身でありながらスタイルも良く、身長は詩音よりも少しだけ高い。
天使を体現した青年に、昴は暫しの間見惚れた。それは他の人間もそうらしく、遠くで彼を立ち尽くしながら見ている老若男女が多く居た。
「……あ。俺、ですか?」
「ええ。貴方にお聞きしたいと思いまして」
流暢 な日本語に交じる独特な外国訛 りが鼓膜を擽 る。英語の授業で度々訪れる外国人教師よりも日本語は断然上手かった。
「初めてこの街に来たんですが、あまりにも土地勘がないものでして。この辺りで喫茶店を探しているんです」
「喫茶店ですか……。もしかして『オンブル』?」
「はい。そのお店を探しています」
「なら、ここから横断歩道を渡って……」
直視が出来ない美貌を柔和な笑顔で人間性を醸し出す青年は、真摯 に拙 い昴の説明を聞いている。
手鞠の瞳よりも浅い海面を揺蕩 う蒼い双眸 は硝子細工のような透明感があるせいで、不純物さがない眼差しに居心地の悪さが勝った。
青年は口元を緩めて柔らかく笑った。
「ふふ。そんなに挙動不審にならなくても大丈夫ですよ」
「え、あ……いや、その」
「教えてくださりありがとうございます」
美しい微笑を携えながら、青年は甘い香りを纏わせて昴の隣を通り抜けていく。
去り際に青年は昴にしか聞こえない声で囁いた。
「――また、会いましょうね」
甘い声で囁かれた言葉に一瞬だけ息をするのを忘れる。
誰もが振り返る美しい外見の青年だった。だが、知らない感覚を間接的に植え付けられた気がする。
昴は青年が口にした言葉を復唱する。
「また、会いましょう」
不可解で現実味を帯びない、未来を予言する言葉に、昴は白昼夢の中で姿を現した幽霊を目撃したような気がした。
浮世 から隔絶された姿をした青年は誰なのか、到底今の段階で判断出来る相手ではないことだけが、確かな証拠でしかなかった。
ともだちにシェアしよう!